遭遇〜Encounter〜


五月十八日。
私は死にかけていた。

友人の秋田に誘われ、山菜採りに出発したのが五月十六日。
道を見失い、果てしなく続く森の中にひとり取り残されて既に二日が経過していた。
その間、何度かヘリコプターの音は聞こえたものの、残念ながらその姿を見ることはできなかった。
無論、向こうからもこちらの姿は確認できなかっただろう。


二日間酷使し続けた脚が、みしりみしりと小さな悲鳴を上げていた。
まるで筋繊維が一本ずつ千切れていくような音だ。
このまま二度と歩けなくなってしまうのではないか、と考えて、私は弱気になっている自分に気がついた。
ここで気力を失えば、それこそ本当に死に繋がる。
私は気を入れ直すために、泥で汚れきった両手で、ぱんと両頬を打った。

絶望は、初日の夜に嫌というほど思い知らされた。
悲しみや諦めは二日目に死ぬほど味わった。
今は。
何としてでも生き残るという、強烈な生への渇望だけが私を支配していた。

(……みのり、正明)
新しく建てたばかりの我が家に残してきた、妻と子。
私がいなければ何もできない気弱な妻と、ようやく一人歩きができるようになったばかりの我が子。
ここで私が死ねば、ふたりはどうなってしまうというのか。
家庭を預かる身として、妻に生涯の伴侶を誓った身として、私には絶対に生き残る義務があった。

がくがくになった脚がもつれて、私はその場に倒れ伏した。
気力でどうにかするつもりだったが、やはり身体には身体の事情があるらしい。
起き上がろうとしても、まったく膝に力が入らなかった。
仕方がないので、少し休憩することにする。
どうにか上半身だけでも起こし、適当な木にもたれて天を仰いだ。

今の状況を忘れることさえできれば、森はまさに安らぎに満ちたゆりかごそのものだった。
さわさわと静かに揺れる木の葉が擦れるさざめきに、柔らかく木立を駆け巡るそよ風の音。
小さな木漏れ日が私の顔に当たり、そっと頬を撫でられたような心地よさがある。
いつか、みのりや正明を連れて来て、この情景を見せてやりたい。
そう思えるほどに、私を飲み込んだこの森は温かく、そして美しかった。

時計を見る。午後三時二十五分。
そろそろ、私が秋田とはぐれてからちょうど四十八時間が経過する。
横に置いたサックを開け、中身を探る。しかし、もう、食べられそうなものは出てこなかった。
節約に節約を重ねたが、持ってきた食料はごくわずかだったため、結局昨日の午前中で食べ尽くしたのだ。
昨日の夜には、あまりの空腹に耐えかねて、採った山菜をかじってみたものの、あまりの苦さに吐き出した。
水だけはまだ少しある。だが、そろそろ身体は限界の様相を呈していた。
「……腹が減った」
気休めに腹部をさすってみたが、もちろん、だから何が起こるということもない。

「都内のサラリーマン、山菜採りに出かけ道に迷って餓死」

嫌な想像をしてしまった。冗談じゃない。
私はこんなところで死ぬわけにはいかないのだ。
ものは試しとばかりに、地面に生えている草を何本か力任せに引っこ抜き、そっと口に運んで噛んでみる。
「……うえぇっ」
やはり食えたものではない。
手を離し、ぱらぱらと舞い散る草を見ながら、私はぼんやりと考えた。
考えられる手は、もう何もかもやり尽くした。
死ぬつもりは毛頭ないが、だからといって、正直、生き残れるような気もしなかった。
このまま私の人生は終わるのかもしれない。
もし。ここで私が死ねば。
死体が家族のもとに帰れるのは、一体いつのことになるのだろう。

みのり、正明。
パパは精一杯やった。帰れないかもしれないが、どうか許してくれないか。
ずっと、お前たちの幸せを願っているよ。
………………。


ちちちちち……


どこからともなく聞こえてきた音に、私は閉じかけていた目を大きく見開いた。
なんだ。今のは。
起き上がって辺りを見回す。森の中に怪しい影はなかった。
空耳か?
いや。
確かに何か聞こえた。何か、人の歌声のようなものが……

……………………
人だって?


ちちち〜っちっち〜……


間違いない!
聞こえた!
私は音の聞こえた方を見た。
さっきまで何度も見た森が広がっているだけだ。
しかし、確かに向こうから聞こえた!
私は慌ててサックを拾い上げ、音の聞こえた方向に向けて走り出した。

みのり。正明。
助かるかもしれない。
パパは、またお前たちに会えるかもしれない!

身体の疲れも忘れて、走る。
さっきまで少しも動いてくれそうになかった身体も、助かるかもしれないとわかると、現金なものだ。
草に足をとられながら、木の根につまづきそうになりながら、私は懸命に走った。

やがて、木陰に何か、人影のようなものが動いているのが見えた。
やはり、やはり! 誰かいたのだ!
嬉しさのあまり目の前がくらくらしてきた。
深呼吸して気を落ち着ける。ここで気絶したら元も子もない。
そして、手を振り上げ、大声で人影を呼ぼうとして、
私は、気がついた。

人影は、踊っていた。
ゆっくりとジャンプをしながら、両腕を交互に斜め前に突き出す。
未開の地の原住民の宴で見られそうな、奇妙なダンス。
飛び跳ねるたびに、人影の着ている燕尾服のようなものの裾が揺らめく。
人影は私に背を向けている。だから、よくわからない。
しかし、その服から覗く腕や脚、頭部は明らかに普通ではなかった。
黄色い。
人間の肌の色ではない。もっともっと、純粋に黄色い。
そして、何よりおかしかったのが、人影の頭の形。
どう見ても、三角形だった。黄色い三角形。
燕尾服の上にあっていいものではない。

こいつは人じゃない。
振り上げかけた手をゆっくりと下ろしながら。
これでは。
冷や汗を流しながら、私は場違いなことを考えた。
これでは。

まるで、チーズじゃないか!


その瞬間。
人影が振り向いた。

目と口のあるはずの場所に穿たれた黒い穴。
そしてその中心では、
髭のような形の黒い何かが、ぞわぞわと蠢いていた。


「うわああああああぁぁぁっあああぁっ!!!!!!!」

絶叫して、私は跳ね起きた。
心臓が破裂しそうだ。胸を押さえようとして、気がついた。
いつの間にかぼろぼろの服が脱がされ、私は清潔な入院着のようなものを身につけていた。
「……!」
慌てて周囲を見回す。そこは森の中ではなく、大きなテントの中だった。その中のベッドに私は寝かされていたようだ。
森の中じゃ、ない。そのことの意味がわからず、私は呆然とした。
森の中じゃ、ない。

「あなた……」
小さな声がした。振り向くと、開いた入り口の向こうにみのりが立っていた。
「あなたっ!」
「みのり……」
駆け寄ってくる妻を抱き寄せ、私はやっと現状を把握した。
無事、救助されたのだ。帰ってこれたのだ。
「ひっひくっ……えうっ……死んだかと思ったよう……馬鹿ぁ」
「……悪かったよ」
胸の中で泣きじゃくる妻の髪を撫でながら、私はみのりと共に入ってきた医者に尋ねた。
「ここは」
「捜索本部のテントです。助かったんですよ」
「正明は……」
「向こうの控え室で寝ています。あとで、元気な姿を見せてあげてください」
「……ありがとうございます。……じゃあ、あいつは」
「あいつ?」
「いえ、なんでもありません」
「……そうですか」
医者は会釈を返した後、早速私の身体の調子を尋ねた。仕事だから当然だ。
ちょっとふらふらするが、どこも痛くはない。しかし、大丈夫です、と答えた瞬間、

ぐぅ〜っ

「……うっ、ふふふっ」
私の腹の音を至近距離で聞いたせいだろう、泣いていたはずのみのりの肩が小刻みに震えた。
「笑うなよ。しばらく何も食ってないんだから当たり前だ」
「だって〜……」
みのりが顔を上げた。涙でぐちゃぐちゃだったが、笑っていた。
「先生、何かありませんか? できれば何か頂けると……」
「ちょっと待ってくださいよ。むぅ……ああ、そういえばアレがあったな」
医者は急いでテントを飛び出していくと、少し経ってからすぐに何かを持って戻ってきた。
「ポットがあって助かった。大した腹の足しにはならないと思いますが、どうぞ」
「どうも、すいません」
私は食べさせてあげる、とのたまう妻を押しのけ、彼からカップ状の何かを受け取った。
それは、つい先日発売されたばかりの、新種のカッ○ヌードルだった。

「…………」

何故か微妙な気分になりながら、私は早速、そのカップ麺を頂くことにしたのだった。


(001 [チーズ] 遭遇〜Encounter〜/終)


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