The Tears of Good-Bye


世界最強国決定戦、という大会が行われることになって、うちのクラスの谷本君がそれに出ることになった。
なんの取り柄もない私が言うのもなんだが、谷本君も本当に何の変哲もないクラスメイトのひとりだった。
成績は普通だし、よく居眠りするし、昼休みには友達と肩を叩きあって笑っている、普通の高校生。
でも彼は大会に出ることになった。もちろん偶然選ばれたのではなくて、実力で選ばれたのだ。
単に、私達が、彼が日本屈指の拳法の使い手であることを知らなかっただけである。

この大会に谷本君が出ることを知ってから、私は大会の後も今まで通りの態度で彼に接しようと決めていた。
正式なメンバー発表があってからこっち、彼はずっとマスコミの取材攻めに遭っていたし、
まわりの人たちも明らかに彼を特別扱いするようになっていた。
だけど、頼みもしてないのにクラスメイトが彼に購買のパンを買ってきてくれたりする時や、
居眠りしても怒られなかった時なんかに、彼は何ともいえない悲しい表情をした。
それを見てしまったせいだと思う。
前の席のよしみとして、それくらいやってもばちは当たらないだろう。

“第八試合、日本対サルベニアが始まります”
TVの向こうで、いよいよ日本の試合が始まった。アナウンサーとゲストのアイドルがボードを手に会話している。
“先ほど発表されたオーダー表によると、先鋒は最年少の谷本選手のようですね”
“あっ谷本選手って、私と同い年なんですよ〜。ゼッタイ勝ってほしいです〜”
巨大なスタジアムのまんなかにある十メートル四方ほどのリングの周辺に、ぞろぞろと人がやってくる。
カメラがズームすると、歩きながら監督に何か言われている谷本君の姿が画面に映った。
“谷本選手、なにやら監督に指示を受けているようです。なんでしょう、遠くてよくわかりませんが”
監督は大げさな身振り手振りを交えながら、谷本君に向かって一生懸命に何かを喋っていた。説教しているようにも見えた。
ブザーが鳴って、騒々しいざわめきに包まれていた会場が静まる。ついに試合が始まるのだ。
監督は何か言いかけた谷本君を手で制して、リングを指差し、そして彼の背中をばんと叩いた。

試合前の礼のあと、いよいよ緒戦のふたりがリングに上る。
谷本君の相手は、とてつもなく巨大な筋肉質の真っ黒い男の人だった。
“相手の選手、クーガー選手ですか、谷本選手と体格差がかなりありますね、大丈夫でしょうか”
“やだ、怖い、怖い、何アレ、勝てないって〜”
騒々しくなる外野をよそに、谷本君はじっと相手の男の人を見ていた。無表情だった。
“さて、注目の緒戦、谷本選手対クーガー選手、始まります”
もう一度、ブザー。全ての音が消え、誰もが押し黙って、リングをじっと凝視した。
そして、レフェリーが手を挙げて――
“ファイッ!”
開始の合図とともに、相手の人が物凄い勢いで突進してきた。アイドルがひっと悲鳴を上げた。
しかし、突進してきた相手の人が、谷本君をすり抜けたように見えた。そしてそのまま、勢い余って、どうと倒れた。
谷本君は一歩も動かない。振り向きすらしない。相手の人は倒れたまま。
完全な静寂が、場を支配した。
一呼吸置いて、レフェリーが倒れた男の人に駆け寄る。そして、すぐに大きく手を振った。
少し間を空けてから、大地震のような凄まじい歓声が湧き上がった。
“すごい谷本、谷本選手、勝利です! 一瞬です、すごい、これはすごい”
アナウンサーが興奮して絶叫する。アイドルはきゃーきゃー言いながら椅子からぴょんぴょん飛び跳ねていた。
日本中が興奮している中で、私はじっと、画面の谷本君を見つめていた。勝ったのに、やっぱり彼は無表情だった。
無表情のまま上を向いて、どこか空の彼方へ飛んでいってしまった何かを、じっと見送っているようだった。

不意に、涙がこぼれた。
あまりのことに自分でもびっくりしたが、涙は止まらなかった。みるみる視界がぼやけ、谷本君の姿がかすむ。
もうTVなんて見ていられなかった。ティッシュを探し、涙を拭うが、それでも止まらない。
私は悟ってしまったのだ。
谷本君が、すでに私の知っている谷本君ではなくなってしまったことを。
彼が、自分の意志で、まったく別の存在に生まれ変わってしまったことを。
そこにいるのは、もう谷本君ではない。
私のすぐ後ろの席に座っていた、あのクラスメイトの少年ではない。
どこか違う世界で戦い続けることを選んだ、私の知らないひとりの格闘家だった。
周囲はもう二度と、谷本君をかつてのように扱うことはないだろう。
ただの高校生として暮らすことは、二度とできないだろう。
谷本君は、それを受け入れてしまったのだ。
どこか虚ろな彼の瞳が、それを雄弁に物語っていた。
彼の見ている空には、きっとクラスメイトのみんなとともに、私の顔も浮かんでいるに違いない。

TVを消し、私は部屋に戻った。
私はもう、谷本君とは以前のように話せないだろう。彼自身が、変質してしまったのだから。
ベッドに倒れこんで、永久に戻らないクラスメイトのことを考え、私は大声でわんわんと泣いた。


(004 [涙] The Tears of Good-bye/終)


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