虫の見る石


メキシコに行っていた親父から、海外旅行の土産として琥珀をもらった。
そんなに高価そうなものを何故、と訊いてみると、何やらノミ市で売られていたのを、
安く買い叩いてきたものらしい。
「呪われてんだってさ。だから安かったんだな」
「そんなもん買ってくんなよ」
「バカお前、そんな値の張りそうなお宝がタダ同然の値段で売られてんだぞ。これを買わない手があるか」
でもオレが持つのはなんか怖いからお前にやる。
そんなことを言われて、押しつけられた。なんて親だ。
まぁ、まがりなりにも宝石なわけで、欲しくなかったと言ったら嘘になるんだけど。

琥珀はほぼビー玉大のサイズだ。結構でかい。
ペンダントになっていて、古い木の枠に半ば埋め込まれるように取り付けてある。
はちみつ色のまん丸のカタマリが、逆三角形のプレートからぽっこり顔を覗かせているわけで、
美しい、というよりは少し可愛い感じがする。
そしてその琥珀の中心には、一匹の小さな虫が閉じ込められていた。
一見すると蚊のようだが、何億年も前の生物のはずなので、本当にそうなのかはちょっと自信がない。
琥珀というのは大昔の木の樹液が固まったものだというから、なんかの弾みに樹液が降りかかってきた時に、
コイツはきっと逃げ遅れてしまったのだろう。
そんな情けない虫のくせに、ぐっと前をまっすぐ見ながらどっしり構えているようなその姿は、
わけのわからない威厳に満ちている気もしないでもないから不思議なものだ。

それはともかく、この琥珀を手に入れてから、僕の身のまわりには妙な現象が起こり始めた。
虫という虫が、まったく寄り付かなくなったのだ。
蝶々が逃げる。半径50メートル以内からセミの鳴き声が聞こえない。一晩中窓を開けていても、蚊が部屋に入ってこない。
残飯にわいていたウジ虫がこぞって逃げ始めたのを見た時には、流石に自分の頭がおかしくなったのかと思った。
異常だ。仮に僕が変な虫防御フェロモンを垂れ流しているのだとしても、それでも説明のつかないレベルだ。
これが親父の言っていた呪いなのだろうか。
こうして人間蚊取り線香となった僕に、酔った親父は馬鹿笑いしながら「虫無視人間」なる仇名をつけた。
この野郎、テメーが原因だっつーのに、完全に面白がってやがる。しかもセンスが腐ってやがる。
その夜の殴り合いのケンカは二時間に及んだが、しかし真実、その名は的外れであったと言わざるを得ない。
虫が寄り付かなくなったのとほぼ同時期から、僕は、常に「何か」の視線を感じるようになっていたのだ。

登校中も。授業中も。トイレの中でも。そして、寝ている時でさえ。
何かの視線が、ずっと僕に絡み付いていた。最初は気付かなかった。それほどに小さな気配だったのだ。
しかし、一度気付いてからというもの、その視線は執拗に僕を追い続けているのが感じられた。
正確には視線というより、気配に近い。ぬるま湯のように常に僕の周囲を覆っている気配。
あまりはっきりしたものではないのが救いだったが、しかし、気になるのは確かであった。

もう勘の良い方はわかったと思う。
視線の正体は虫だった。
奴らは決して近寄って来ずに、遠巻きにしながら、僕をじっと見つめていたのだ。
しかし、その考えに思い至ったものの、まだ半信半疑だった僕は、ひとつの実験をしてみることにした。

あえて山中にキャンプすることにより、この琥珀の本当の効果を調べる。
山の中に潜む虫の数は、都会のそれとはまったく比較にならない。
そこで、この石が集めているのが本当に虫の視線なのか、確かめてみようと思ったのだ。

そんなわけで、やってきた山の中は、信じられないほど静まりかえっていた。
言うまでもなく、虫がいないからだ。
森の中に特有の木々のさざめき、動物の気配、風の音、草の揺れる音――
そういったすべてのBGMから、「厚み」が完全に消え失せていた。
弦楽器だけのオーケストラを聴いた時のような、背景だけの漫画を読んだ時のような、奇妙な感覚。
「なんだコレ……すげー違和感バリバリなんだけど。異次元じゃねーのかココ」
あまりの効果に僕は絶句する。まじまじと琥珀を見るが、それ自体には別に変化はない。
「虫除け本当に要らなかったな」
僕の隣で、なぜかついてきた親父が呟く。まったく、この親父は、こういうイベントが大好きなのだ。
「そんなこと言って、あとで大変な目に遭っても、知らねーぞ」
そう言いながらも、虫除けスプレーの類がまるで必要ないことに関しては、僕も同感だった。

夜。
僕はテントの中で、明かりを消してじっと天井を見上げていた。
親父はすでに致死量に達するんじゃないかというほどの酒を飲んで隣で眠っている。
いびきが五月蝿い。しかしそれでもはっきりとした沈黙が感じられるのは、この琥珀のなせる業なのだろう。
本当に、この琥珀は、いったい何なのだろう?
と、その時だった。テントの中が不意に明るくなり、僕は驚いて身を起こした。
まるで、外から工事用の照明を当てられているんじゃないかというほどの光だった。

そして、
それと同時に、
ものすごい視線を感じて、
僕は思わず、身をすくませた。

全身の毛という毛が、一瞬で逆立つ。
耳元で、ぎぃん、という音がしたような、気がした。

琥珀を握ったまま、テントを飛び出る。
頭上には信じられないほど肥大化した、まるで太陽のような月が浮かんでいた。
そして、視線。
僕の全身をなめ回し、すべてを飲み込んでしまいそうな、洪水のような視線の渦。
相変わらず虫たちの発する音は何もない。
しかし、気配があった。何兆何億何万もの虫たちの気配が。
山の中に存在するすべての虫という虫が、息を潜めて一点をじっと見つめているのが確かに感じられた。
その視線はすべて、僕と、僕の持つ琥珀の中の、小さな虫に注がれて。

この琥珀に閉じ込められているのは、王様だったんだ。
そんなことを思った。

耐え切れなくなって、僕は走る。
後先考えず、道なりに、道なりに、どこまでも逃げる。
しかし、視線はついてくる。
目の前に迫る大隕石のような圧倒的な迫力の視線は、まるで離れようとしない。
走っても走っても、きりがない。視線が僕を蹂躙する。
逃げ切れる気がしなかった。
濃密な空気のような視線に囲まれて実感する。空気から逃れるのは、無理だ。

立ち止まった。
どこだかわからない山の中の、獣道の行き止まりだった。目の前には切り立った斜面とその下に深く続く森があった。
そこで僕は最後にもう一度琥珀を見る。
虫の王様の屍骸は、例によってわけのわからない威厳に満ちていた。
大きく振りかぶる。そして、眼下の森に向かって、全力で投げつけた。
するり、と視線が僕の背中から外れた。
そして、大勢の虫たちと、月と、僕の視線に包まれた琥珀は、小さく光りながら、森に飲み込まれていった。


翌朝、親父の顔は大量の虫に刺されて見事なほどに腫れ上がっていた。
「話が違うじゃないか」
話ってなんだよ。そんな当然のツッコミを受けても、親父はふんと、子供のようにむくれていた。
僕はというと、どういうわけか、無事だった。王様が何か配慮してくれたのかもしれない。
帰り支度をしながら、僕はテントから外の景色を見る。
普段通りの心地良いさざめきとセミの鳴き声がして、一匹の蝶が、網を持った子供と追いかけっこをしていた。

そして、今も僕はたまにこんな風景を思い浮かべる。
人里離れた山の中、深い森の奥に虫の気配がまったくしない聖域があって、
その中心に、威厳に満ちた王様を閉じ込めた琥珀が飾られている。
虫たちは琥珀には決して近付こうとせずに、
今日も、ただ熱烈な畏怖の視線を王様に向け続けているのだ。


(007 [虫] 虫の見る石/終)


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