サクルド・マリア


 静かに幕が上がる。
 スポットライト。
 純白のドレスを着た少女が一礼する。

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“――の組曲『サクルド・マリア』は“神楽師”との異名で呼ばれる世紀の大作曲家ビオ・マリトオ伯の生涯最後の大作であり、
 史上最長の舞踏曲として世界に我が王国が誇るべき芸術であります。
 この長編舞踏は三年に一度王宮のフルーエル大劇場にて行われる礼神祭で王女のみが舞うことを許されております。
 この歓神式では王女が自らこの八時間に亘る長編舞踏をたった独りで舞うことが義務付けられており、
 この儀式の成功は次の儀式までの王国の繁栄を約束するとして――”


 壮大な管弦楽の調べを背景に、何度目になるかわからない説明が古ぼけたラジオから流れている。
 君はそのかすれた音を聞きながら、窓辺に映る月をじっと眺めている。
 暗闇の工房に、窓から月の光が差し込む。部屋中にひしめく古い機械類が鈍い青白に輝く。
 君は窓辺に添えていた手を放し、暗闇の中、機械仕掛けのような大股で部屋を横切る。
 君の細い足が床を叩くたびに、ぎしり、ぎしりと古い木の板が悲鳴をあげる。
 軋みは一定のリズムを刻み、部屋の反対側、巨大な自動熱処理釜(フレアミキサー)の扉の前で止まる。
「三年に一度、王宮に響く『サクルド・マリア』」
 歌うような君の囁き。釜にもたれる君の身体。
「大劇場に集まる国中の貴族。キリュウ候。シャテン伯。王国和議員たち。ハルウ議長様。西のレオナ伯母様。
 そして、偉大なる王たるお父様」

“――儀式の開始から四時間、王女様は華麗な舞いを続けております――”

「みんな、みんな、知らない。誰も知らない。
 あの舞台で踊っているのが、人形であることを」

“――朝影のように柔らかな足運び、羅針盤のような鋭い踏み込み、見る者を惚れ惚れさせるような完璧な舞いでございます。
 三年前より、いっそう力強いその動きに、国王様や大貴族の皆様も心を奪われております――”


 君はそこまで聞いてから、振り向いて、静かに微笑む。
 感情のない薔薇のような笑み。月明かりを反射する、仮面(マスケラ)のように美しい顔。艶やかな黒髪。
「――本物は、ここ。そのことを、誰も知らない。
 私と、貴方以外は」
 薄暗い部屋の中に、くすりと小さな声が漏れる。秘密の味のする匂い。唇にあてがわれる人差し指。
「世界中の国々すべてに宮廷機工師は存在していても、貴方ほどの機工師はいないわ。
 何せ、貴方自身が、人形だもの」
 君は自動熱処理釜に預けていた身体を起こし、再び移動を始める。
 ぎっし。ぎっし。ぎっし。ぎっし。ぎっし。ぎっし。
 六歩進んで歩みを止め、加工台の上に転がっているあやつり人形を取る。
 十字の組み木を持ち上げると、糸に引かれてピエロが動く。
「人間そっくりな貴方の姿。不思議な古代の動力で、永遠に動き続ける貴方の身体は、どこから見ても人間そのもの」
 ピエロの歩み。ぎこちなく交互に足を上げ、埃の積もった台を、一歩、二歩、三歩。
「もし私が気付かなければ、きっと貴方はいつまでも人間のふりをしていたことでしょう。
 でも、私は気付いた。私ひとりが、気付いてしまった」
 ピエロが直立不動の体勢をとり、空ろな瞳が宙を睨む。そして、自らの帽子を取り、うやうやしく一礼する。
「だから、この計画をもちかけたのよ。礼神祭の舞踏の間、身代わりを踊らせる計画を」

“――『サクルド・マリア』は別名『バースデイ・ソング』とも呼ばれており、
 神の御子の誕生をなぞらえて、全部で三つの楽章から構成されております。
 まず第一に、誕生の苦しみをあらわす『嵐』の楽章――”


「貴方の生み出す人形が、どれも素晴らしく生き生きとしていたのは、すべて貴方自身がモデルだったから。
 人間と変わらず滑らかに動く人形は、仮の動力が切れるまで、まるで生きているかのように振舞う」
ピエロの踊り。両手両足をばたつかせ、ふわふわと宙に浮きながら、もがくように宙を舞う。
「人形には“人形の章印”(ジャック・マーク)をつけていたから、人間と間違われることはなかったけれど。
 でも、ならば、外見さえも似せてしまえば、誰がその正体に気付くかしら?」

“――第二楽章は、誕生の安らぎをあらわす『凪』の楽章。
 第一楽章の激しさとはうって変って、優雅で静かな舞いが続きます――”


「貴方は、ずっと退屈していた。永遠の時を過ごすには、宮廷機工師の暮らしはあまりに退屈だった。
 繰り返し、繰り返し。貴方にとっての日常は、何度も観た劇。飽きるほど読んだ本」
 ピエロが動きを止める。台から数ミリ浮いたまま、窓の方を恨めしげに眺めている。
「だからでしょう、私の誘いに乗ったのは。こんな茶番劇でも、暇潰しにはなると思って。
 こうして、私は私の欲しいものを、貴方は貴方の欲しいものを手に入れる」
 地に落ちるピエロ。君は組み木から手を放し、空気のような無表情で、口だけを動かす。
「ずっと嫌だった、こんな生活。大きなものの下で押し潰されるような生活が嫌だった。
 毎日が偽物の生活。自らの意思も、果たすべき使命も、私のために鳴る音楽もない生活」

“――そして、まもなく始まる第三楽章は、誕生の喜びをあらわす『風』の楽章。
 新しい風が偉大なる王国旗を洗うように、軽快で喜びに満ちた華麗な舞いであります――”


「……『サクルド・マリア』を踊れるのは、何もあの人形だけじゃなくてよ」
 抜け殻のような君はラジオの実況を聴いて、楽しいことを思いついたように微笑み、部屋の中央に立つ。
 そして、第三楽章の始まりに合わせて、軽やかな一歩を踏み出す。
「この舞いは喜びの舞い。始まりの旋律。私のためにある楽章。
 ずっと待っていた。待っていた、新しい生活。本物の生活。
 御覧なさい、私の舞いを。あの人形や、あの女に負けない私の舞いを。
 貴方にだけは見せて差し上げましょう」
 ラジオのか細い音に合わせて、人形のように動く君の舞い。
 月明かりのもと、君は勝ち誇ったように、華麗な舞踏を舞い続ける。
 花のように清らかな身のこなし。せせらぎのような穏やかなステップ。
 ぎっし。ぎし。ぎし。ぎっし。ぎっし。
 時計の針のような規則正しい音が響き、今だけは人形工場が君の晴れ舞台となる。

「そこの釜の中に眠る、忌々しい第一王女(おねえさま)になんか、絶対に見せてやらない――」

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 第三楽章も終盤に近付いた頃、君はついと動きを止める。
 息ひとつ切らさず、舞いをやめて、窓の向こうをぼんやりと眺める。
「そろそろ行かなくては、怪しまれてしまうわね。
 時間までに私が戻らないと、お姉様の身代わりを踊らせている意味がなくなってしまうわ」
 大劇場で舞う第一王女。観客はそれが人形だと気付かず、王女が踊っているものと思い込む。
 その間に、君は本物を連れ出し、ここに運ぶ。そして、釜に閉じ込め、焼く。
 君は王宮に戻り、何食わぬ顔をして、明け方まで続く儀式に参加する。
 人形は先に寝室へと戻った後、自然発火装置でこの世から消滅。
 踊り疲れた王女が眠っているはずの部屋から、王女が消えているのが見つかるのは、翌朝だ。
 焼け焦げた木の破片を前にして君は叫ぶ、「お姉様はどこ」と、声を枯らして。
 これが君の話した計画。君が新しい生活を手に入れるための計画。

 ここまでは機械のように完璧に事が運んだ。
 だけど、君は、まだ知らないことがある。

「あとの始末は任せましたよ」
 君は服についた汚れを払い、颯爽と踵を返す。古くて汚い作業部屋を出て、工場の裏手へ。
 そこに停泊させてある風車滑空機(オーニソプター)にまたがり、君はエンジンをかける。
 無音で羽ばたく鳥が、草を揺らして浮き上がる。勝利をたたえた君の瞳がきらりと光る。
 上品な笑み。
「では、ごきげんよう」
 君はぐんと上昇して、月の光線と絡み合うように、暗い星空に消えていく。
 新しい風が巻き上がり、部屋の中から微かに聞こえる『サクルド・マリア』が、少しだけ揺らぐ。

 繰り返される茶番劇。
 これで何度目か、もう覚えていない。

 君は風車滑空機に乗り、五分と三十二秒をかけて、七キロ先の王宮に向かう。
 月の周りを二度旋回したあと、君は人目をはばかって、目立たぬ裏手の壁際に着地する。
 それから、ふと、遥か城壁の上にある大劇場の小さな窓と、その先に広がる星空を眺める。
 身動きもせず、ただ眺め続ける。
 その胸には、喜びも、悲しみもない。
 発条の切れた時計のように、微動だにしない肢体。
 その白い頬に青白い月の光が降り注ぎ、時の止まった楽園は、次に命を吹き込まれるまでしばしの眠りに就く。

 そうなることは、決まっている。

“――の楽曲、『サクルド・マリア』も、いよいよフィナーレでございます。
 予定通り、王女様は一分の狂いもない見事な舞踏を披露してくださいました。
 さあ、もう少しで、八時間に及ぶ演目も終わりです。
 皆様、お目を閉じて、想いを馳せてくださいませ。
 偉大なる王家に、更なる栄光が訪れんことを。我が王国に、いっそうの繁栄がもたらされんことを――”


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 曲の終わり。
 スポットライトの真ん中で、
 少女が、
 一礼する。

 暗転。
 そして、少女も、観客も、実況も、全てが止まった。

 ぼくの設計した通りに。


(009 [人形] サクルド・マリア/終)


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