ありがとうダニー・ソーサラー


ダニー・ソーサラーとの別れは、今にも雨の降りそうな重々しい曇りの日にやってきた。

僕はその日は何をするでもなく、部屋で好きなCDを聴きながら本を読み耽っていた。
特に用事もなく、いつ崩れるかわかったものじゃない天気では外出もできず、
それならばとずっと放置していた本を読むことに決めたのだ。
しかし、本は思ったよりずっと退屈だった。
ベッドでごろごろしながら、そろそろ同じ姿勢に飽きかけていた頃、
枕もとの携帯にダニーが電話をかけてきた。
「ちょっと来てくれないか」
彼はいつもの平坦な口調で言った。
天気は心配だったが、提案自体は渡りに船だった。
二つ返事で承諾し、僕は自転車を駆って指定の喫茶店に飛んでいった。  

僕とダニーとの付き合いはそれほど長いものではない。
半年ほど前の大雪の日、ある事情で途方に暮れていた僕のところに、
どこからともなく現れて助けてくれたのがダニーだった。
それ以来、こうしてたまに会う間柄になったのだ。

「残念だが今日でお別れなんだ」
開口一番のダニーの台詞がそれだった。
僕達以外に誰もいない喫茶店は静まり返っていた。
「だから今日は最後に君の望みを聞いてあげたいと思うんだよ」
僕にできることの範疇でね、と彼は最後に付け加える。
冗談とも本気ともつかない口調に僕は少し混乱した。
でも、僕は知っていた。
ダニー・ソーサラーは決して冗談を言わない男だということを。

彼の弁によると、
世の中にはどうにでもなることとどうしようもないことの二通りがあって、
普通は混同してしまうが、よっぽど注意して見ていれば分別は可能なのだという。
ものを凝視するのが得意な彼らしい発言だった。
それが本当かどうかはともかく、僕にも今回の件がどうやら後者らしいことはわかったので、
大人しく彼の言うことに従うことにした。

最後にしてほしいこととして、僕はささやかな晩餐会を提案した。
いつもはコンビニの弁当で済ませている夕食を、今日ばかりはちゃんと材料を買って、
きちんと調理して酒など交えながら頂こうという計画だ。
「本当にこんなことでいいのかい?」
ダニーは目を丸くしていた。
「もっと、なんだってできるんだよ。例えば君の……」
「これでいいんだよ」
おせっかいな彼の言葉を、僕は遮った。
「その代わり、お前には思いっきり腕をふるってもらうぜ」
実際、他の選択肢は考えもつかなかった。
これくらいありふれたことでないと、願いの意味がないからだ。

ダニー・ソーサラーの料理の腕は大したものだった。
一時間前にはスーパーの袋一杯に詰まっていたむき出しの素材の数々が、
あっという間に世にも美味そうな鍋へと変貌を遂げていた。
「別れの日に鍋なんて食べるのは僕達くらいだよ」
ダニーは苦笑しながら華麗な手つきでアクを取る。
「あったまるからいいじゃないか」
僕は思い切って買った高級ウイスキーの瓶のラベルを破りながら、窓の外を見た。
ぎりぎりの天候はまだかろうじて均衡を保っていた。

美味い酒を飲みながら、美味い鍋を食べる。
「しあわせのかたちというやつだ」
ほろ酔い気分の僕は知ったような口を利いてみる。
「しあわせなのは鍋奉行が他にいるからだよ」
酒に強いダニーは平然とした顔で入れたばかりの野菜をつつく。
「こっちの野菜はまだしばらくかかる。先にこの辺の肉を食べてくれ」
それくらい言われなくてもわかる。本当におせっかいなやつだ。
だがこれは確かにしあわせだと、僕は朦朧とした頭で本気で思った。

酒が、進む。
「この本は誰が書いたやつなんだい?」
「それか? あんまり気にするな。つまらないから」
「ふうん、見たことない作者だな」
「人の話聞けよ」
ダニーとふたりで、晩餐会は過ぎてゆく。

いろいろ、思い出した。
初めて会った日、振り払っても振り払ってもついてきた時の困ったような表情だとか、
生まれて初めて来たというカラオケで熱唱していた下手糞な歌だとか、
本を貸してやったところいたく気に入って、翌日には同じ本を三冊揃えていたという馬鹿な逸話だとか、
近所の野良猫が凍死しないか心配だと大真面目に語った男の顔だとか。
本当に、いろいろ、思い出した。
上等な酒には、人を感傷的にさせる力があると、僕は実感する。

「飲みすぎはいけないよ」
「うるせー」

ゆらゆらしてきた視界の中で、
目の前にいるはずのダニーの姿を探す。
彼は僕を見ながら笑ってグラスを傾けて、
少しだけ残った琥珀色が鈍く鈍く光っていた。

ありがとう。
ありがとうダニー・ソーサラー。
僕はお前のことを忘れない。
天地がひっくり返っても、この鍋の味は忘れない。


雨はとうとう降ることがなく、翌日には抜けるような晴天が広がっていた。
目覚めた時にはすべてが終わっていた。
僕はきちんとベッドに寝ていたし、鍋は綺麗に洗って乾燥台に置いてあった。
ダニー・ソーサラーは旅立ったのだ。

ふと気づくと、テーブルの上には未開封のウイスキーがあった。
中身が戻っているのはもちろん、ご丁寧に破いたラベルまで復活している。
僕は苦笑した。
昨日で飲み干すつもりだったのに、元に戻しちゃ意味がないじゃないか。
こんなことは願っていないのに。
まったく、おせっかいな天使は、これだから困る。


(010 [別れ] ありがとうダニー・ソーサラー/終)


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