羽の喪失(後編)
学校が終わったら急いで家に帰って、部屋に閉じこもる日々が続いた。
心配した友達が何人も来てくれたけど、会いたくなかったので、顔も見せずに帰ってもらった。
そんなことをしばらく続けているうちに、誰も来なくなった。
しかし、わたしはせいせいしていた。
みんな嫌いだ。わたしなんかどうせ仲間外れなんだ。
だから、誰も近くに来なくていい。
それからしばらくして、結婚したお姉ちゃんが家に戻ってきた。
お兄ちゃんが仕事でちょっと遠くに行くため、その間わたしの家で暮らすことになったのだ。
久々に見たお姉ちゃんはちっちゃい赤ちゃんを抱えていた。
赤ちゃんは男の子だったから、もちろん背中に羽はなかった。
「ゼグっていう名前にしたの。可愛いでしょ」
お姉ちゃんがお母さんに話しかけているすきに、ちょっとゼグくんを覗いてみた。
ゼグくんは髪の毛がほとんどなくて、まるでつるつるの卵のような顔をしていた。
人差し指でそっと触ろうとすると、ゼグくんは両手を持ち上げて、
わたしの指を掴んできゃっきゃっと笑った。
可愛かった。
わたしは家にいる間中、ゼグくんといっしょにいるようになった。
ごはんも、寝る時も、遊ぶ時も、みんないっしょ。
しばらくしてお兄ちゃんがあいさつに来たけど、
その時も私はゼグくんをお兄ちゃんに渡さず、しっかり抱きしめていた。
お兄ちゃんは淋しそうな顔をしたけど、わたしを見て、にっこり笑った。
「しばらく会えないから、お兄ちゃんのぶんまで、ゼグを可愛がってあげてね」
お兄ちゃんが帰る後ろ姿を見ながら、ちょっと悪いことをしたかな、と思った。
ゼグくんは、なんにでも興味を示す赤ちゃんだった。
テーブルの上のマメを見つけて、すぐに口に入れようとする。
カーテンのすそを掴んで、めちゃくちゃにひっぱったり丸めたりする。
お姉ちゃんの本を見つけては、最初の方のページを破りとったりする。
そして、本当に楽しそうに笑う。いたずらをとっても楽しんでいるようだった。
でも、お母さんもお姉ちゃんも、いたずらを止めながら、ずっとどこか楽しそうな顔をしていた。
わたしは、お母さんもお姉ちゃんも嫌いだったから、
そのふたりにゼグくんと遊ぶ時間を邪魔されるといつもふくれていたけど。
でも気がつくと、前ほど背中の羽のことは気にならなくなっていた。
ゼグくんが来て、二ヵ月後。
また、友達がいっぱい、わたしの家にやってきた。
「カミちゃんもいっしょに遊ぼうよ」
でもやっぱりみんなの背中には羽がなかったので、そしてわたしの背中にだけ羽があったので、
やっぱりみんなには会わずに帰ってもらった。
でも、前そうした時と違って、今度はちょっと胸がきゅんとなった。
みんなもう羽はないのに。だから嫌いなはずなのに。
わたしだけ羽があるのに。だからひとりぼっちのはずなのに。
でも、みんなが帰っていく姿を見ていると、自分もその中にまざりたくなってしまった。
いや、と言って、わたしは近くのぬいぐるみを強く抱きしめて寝た。
隣では、ゼグくんがすやすやと小さい寝息を立てていた。
その夜。
夜中に目が醒めたわたしは、食堂から小さな話し声を聞いた。
「そうかい、ゼルスくん、とうとう昇格なの。おめでとう」
「ありがとう。だから、それで私たちもあっちに行って、一緒に暮らさないかって」
「でも、カミが承知しないんじゃない? あの子、ゼグにべったりだから……」
「そうなんだけどね……だけど、返事はなるべく早く、って言ってるし」
「さて、どう切り出そうか……」
音を立てずに部屋に戻って、布団を頭からかぶった。
ゼグくんまでわたしを置いていく。
わたしはまた、ひとりぼっちになるんだろうか。
ゼグくんは、前と同じように笑う。
でも、わたしは笑えなくなった。
ゼグくんまでいなくなるのは嫌だったから。
前よりもっとずっと、わたしはゼグくんといっしょにいるようになった。
その様子を見て、お母さんやお姉ちゃんもわたしがあのことを知ったのを悟ったのか、
何も言わず、じっとわたしたちの遊ぶ姿を眺めることが多くなった。
でも、わたしは気づいていた。
ゼグくんはもうすぐわたしの前からいなくなる。
そしてそれはわたしには、たぶん変えられないことだ。
どれだけぐずっても、抵抗しても、いつかはゼグくんは行ってしまうのだ。
どうしよう。
どうしよう。
わたしは、どうすればいいんだろう。
お姉ちゃんがゼグくんと散歩に行ったあと、またわたしの家に友達が来た。
前より人数は少なくなっていたけど、その代わり、手に何かをもっていた。
わたしはやっぱり会いたくなかったのでそう言ったのだけど、
でも今回だけはお母さんはわたしの言うことを聞いてくれなかった。
わたしが何も言わないうちに、玄関のドアを開けてみんなを中に入れてしまった。
わたしは驚いたけど、どうすることもできない。
ベッドの上でひざを抱えていると、みんながわたしの部屋に入ってきた。
「あの、カミちゃん」
「来ないで」
「この間お誕生日だったのに、お祝いできなかったでしょ。
だから、プレゼント持ってきたの」
「帰って。どうせわたしだけ羽あるもん」
「……羽のこと、ごめんね。カミちゃんだけ仲間はずれにして、ごめんね」
「…………」
「プレゼント、ここに置いておくから。明日また学校で会おうね」
みんなが帰ったあとも、わたしはずっとひざを抱えていた。
わたしだけ羽があるのに。
なのに、どうしてかまってくれるんだろう。
手を伸ばして、プレゼントの包みをひったくる。
そして、リボンをそっとほどいた。
中には、赤ちゃんの形をした可愛いお人形が入っていた。
「ゼグくんのことききました。代わりにこの子で遊んでください」
そういう手紙も入っていた。
その日ゼグくんが帰ってくるまで、ものすごく長い時間がたった気がした。
ゼグくんはいつも通りに笑っていた。
赤ちゃんのお人形も、小さな口を開いて静かに笑っていた。
「お姉ちゃん、行っていいよ」
「え?」
「ゼグくん連れて、お兄ちゃんのとこ行っていいよ」
「でも、淋しくないの?」
「……もう、平気」
わたしには、お人形がある。
それに、学校で友達も待っている。
お兄ちゃんが迎えに来たのは、その一週間後だった。
ゼグくんはお兄ちゃんに抱かれて、その途端にぐずりだした。
「しばらく会ってなかったから忘れられてる」
お姉ちゃんもお母さんも、お兄ちゃんも笑っていた。
「ほらゼグ、お姉ちゃんにバイバイしなさい」
お姉ちゃんが最後にかがんで、わたしに向けてゼグくんを差し出す。
泣きやんだゼグくんは、むすっとした顔でわたしを見ていた。
「……ほら、バイバイね」
「……バイバイ」
お姉ちゃんにバイバイさせられるゼグくんに、わたしも手を振り返す。
その瞬間。
ゼグくんはいきなりもぞっと動いて、近付きすぎていたわたしの顔に自分の顔をぶつけてきた。
ごつっ。
「いたっ」
その時だった。
突然、体が軽くなる。
いきなりバランスを崩されて、前のめりに倒れそうになる。
ぐっとこらえて、ゼグくんを抱きかかえたまま、どうにか立ち直った。
「……あ」
お姉ちゃんが、小さな声を漏らす。
「……カミ」
お母さんが、わたしを呼んだ。
「羽……」
わたしの羽は、きれいさっぱりなくなっていた。
ふふふ。
あまりに面白くて、わたしは笑った。
あんなにわたしを困らせた背中の羽は、
たった一度の赤ちゃんとのチューで、跡形もなく消えてしまいました。
わたしの笑いにつられて、みんなで笑い出す。
「ゼグったら、お姉ちゃんとチューしちゃったね」
「ゼグ、このやろ、幸せもんがー」
「あんた、ゼグと結婚するの?」
「したいけど無理」
みんなで笑っていると、ゼグくんも笑った。
卵のような顔をくしゃくしゃにして、神様のような顔でゼグくんは笑った。
友達に謝って、先生にも謝って、わたしはまた前のような日々に戻った。
ゾマくんは、まだあの子とつきあっているらしい。
でも、わたしはもう嫌な気持ちにならない。
「ところで」
休み時間、友達が話しかけてきた。
「あの羽って、結局なんだったんだろうね」
「重いし、邪魔くさいだけだったからね」
「で、キスしたら消えるんでしょ。本当になんなんだろう」
「さあ……」
わたしは頭を横にふりながら、何気なく教室の扉の向こうを見た。
廊下を、まだ羽のある子が何人か走っていく。ひとつ下の学年だ。
「羽ねー……」
わかるような気もするけど、やっぱりよくわからない。
でも、やっぱり、なんとなくわかるような気がする。
「大人になったらわかるんじゃない?」
(019 [成長] 羽の喪失/終)
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