血女


(1)

『あまりの悲しみに、血が止まりません』

町を歩いていると、全身から大量の血を吹き出しながら歩く女の人を見かけた。
「かわいそうに。娘さん、火事で亡くしたらしいよ」
そう言うきみはすでに頭から血を流している。
そんなきみの表情を見ているうちに、ぼくの目からも真っ赤な血が流れ始めてきたのだった。

(2)

『悲しくて悲しくて、溶けて消えてしまいそうです』

じゃぶじゃぶ。じゃぶじゃぶ。
最期は海で果てることにしました。
じゃぶじゃぶ。じゃぶじゃぶ。
初秋の海は、真昼といえど冷たい。

だくだく、だくだく、流れ出した血が水に溶ける。
あの子の行きたがっていた海。
力の抜ける感覚と共に、不思議な悦びが体を震わせる。
いま私は全身から悲しみの血を吹き出しています。
塩水が傷口にしみます。痛くて痛くて、死にそうです。
でも、少しだけ妙な満足感を覚えてしまいます。
ただの自己満足でも良いんです。あの子と一緒に死ねれば良いんです。

ああ、赤くなってきました。
見渡す限りに広がる海、その私のまわりだけ、うすらぼんやりと汚い赤に染まっています。
この広すぎる海を、少しだけ私は変えてやりました。
抗いようのなさそうなものでも、命を懸ければちょっとはどうにかなるようです。

血が、血が止まりません。
私がどんどん溶けてゆきます。
全部出し尽くせば止まるでしょうか。全部出し尽くせば消えるでしょうか。
消えて、なくなって、最初からなかったことにしてくれるでしょうか。

ぼんやり、赤い煙が水面に広がる。
私の血液が海と交じり合う。眠気が増す。目を閉じれば、水中に引きずり込まれてしまいそう。
海底に横たわる私の体。薄く開いた目に届くのは赤い光、黒い光。
力の入らない腕を伸ばして、あの子の服のすそを掴みます。
ようやく、捕まえた。
ああ、肉体から血液が失われてきたのを感じます。
血の代わりに私に這入ってくるものは、海水でしょうか。魚でしょうか。
それとも何も這入ってきてくれなくて、からっぽのまま崩れるでしょうか。
それはそれでまた、素敵なことかもしれません。

あ、の、こ、の、う、み、……。
つ、め、た、い、う、み、……。

赤い水は夕陽にまぎれて見えなくなる。
夜が明けた時、そこはいつも通りの海だった。


(3)

『だれかたすけて』

人気の紙パックトマトジュースにまぎれて、人間の血の入ったものが出回っているらしい。
噂によると、このジュースを製造している工場の雇ったパートの中に病気で子供を亡くした母親がいて、
一日に一個だけ、生産ラインのベルトコンベアからこっそり紙パックを抜き取り、
トマトジュースの代わりに自分の血を詰めているのだという。
動機については諸説ある。
悲しみのあまり二重人格になってしまい、死んだ子供を再現した人格が悪戯でやっているという説。
自分も子供と同じ病気にかかっていて、その病気を無差別に撒き散らしてやろうとしているという説。
すでに気が狂ってしまっていて、自分を子供の好きだったトマトの化身だと思い込んでいるという説。
いずれにせよ、その紙パックにはどこかにうっすらと血の指紋がついているので、
それがなければ安全だ、というオチに繋がる。だがそれをうっかり飲んでしまった人間は……

そんなの、他愛のない都市伝説だよね。
うちのような実際の工場はもっと機械的で厳重だから、そんなことをするのは不可能なのにね。
そんな話をパートの同僚としていると、トイレに行っていた松坂さんが休憩室に戻ってきた。
なぜか、右手で左手を強く押さえている。
「どうしたの松坂さん」
様子を見ようとすると、松坂さんは明らかに動揺して、なんでもない、と声を荒げて逃げた。
「何よあれ」
むっとしていると、違う同僚がやってきて、小さな声でそっと囁いた。
「いや、ホラ、松坂さん家って、いろいろ複雑みたいじゃない。最近様子おかしいのよ」
「複雑って?」
「子供が死んだとか、それで旦那と別れたとか、なんとか。よく知らないけど」
松坂さんの出て行ったドアを見る。目を凝らして良く見ると、ドアノブにかすれた赤い指紋がついていた。
………………。
まさか。まさかね。
同僚とふたり顔を見合わせて、はははと笑った。


(024 [血] 血女/終)


小物小説一覧に戻る