助手席の人


 子供の頃はよく父にドライブに連れて行ってもらったが、そういう時はぼくは必ず後部座席に座らされたものだ。父は運転席に座り、助手席には誰も乗っていない。そしてぼくは二つの前部座席の間から体を前に乗り出して、父と、誰もいないからっぽの助手席の中心に割り込むようにポジションを確保する。なぜぼくが助手席に座れないのか気にしたことはなかった。物心つく前からずっとそういう風に教えられてきたので、てっきりそれが常識だとばかり思い込んでいた。
 ある時、ぼくと父は二人で遊園地に出かけた。日が暮れるまでめいっぱい遊び倒したせいで、帰りの車の中でぼくは眠り込んでしまった。そして家が近くなってきたあたりでふと目を覚ますと、父が助手席に向かって何か語りかけているのが聞こえてきた。
「ナツヒコはいい子に育っているみたいだ、はるこ」
 はるこって誰だろう。ぼくは起き抜けのぼんやりした気持ちのままそんなことを考えたが、薄目を開けて確認した助手席には、やっぱり誰も座っていなかった。だからぼくは、ああ、おとうさんは車に向けて話しかけているんだな、と思った。この車の名前ははるこというのか。知らなかった。車にも名前があったんだ。
「このままずっと順調にいってくれればいいんだが……お、そろそろ家が近いな」
 はるこ。はるこ。ぼくは初めて知った車の名前を頭の中で繰り返した。その名前はこの車にすごくしっくりくるような気がした。はるこ。はるこ。どこかあったかい感じがして、とてもいい名前だと思う。
「さて、そろそろナツヒコを起こしてやらなきゃ……」
 ぼくはまた目を閉じて寝たふりをした。おとうさんの大きな手で優しく揺り起こされるのを思い浮かべて、ぼくは少しだけわくわくした。


(033 [助手席] 助手席の人/終)


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