残り髪


 念願の理容師になれたまでは良かったものの、当時の私はとても資格が取れたとは思えないほど髪を切るのが下手だったので、学校を卒業してからしばらくは知り合いの美容室で見習いとして働いていました。しかしそこでも私の腕の悪さは当然のようにみんな知っていたので、私は最初の半年ほどは一度もお客さんを任されませんでした。自分でもそれは適切な判断だとは思いましたが、それでもやっぱり悔しくて、私はいつも夜遅くまで店に残っては、一人で髪を切る練習を延々と続けていました。

 その日、彼女が現れたのも、そんな風にして真夜中の店に一人で残って特訓している最中でした。どうしても上手くいかないハサミ遣いに悪戦苦闘していると、鍵をかけてあるはずの入り口のドアがきいっと小さな音を立てて開き、高校生くらいの長い髪の女の子がすっと入ってきました。透けかけている足元といい、生気のない顔といい、近くにふわふわ浮いている人魂といい、どこからどう見ても幽霊でした。私は驚いて、唖然としながら女の子を見ていましたが、そうこうしているうちに女の子は無言でつかつかと店の中を横切ってきて、私の目の前の散髪イスにひょいと腰掛けました。そして一言も喋らないまま、青白い顔で私の目をじっと見つめてくるのです。

「ひょっとして、髪を切ってくれって、そういうこと?」

 恐る恐る尋ねると、女の子は黙りこくったまま、こくん、と小さく頷きました。

 どうしたものかと思いましたが、幽霊とはいえ、初めてのお客さんです。しかもその髪というのが、とても魅力的な艶と色合いの、理容師なら誰もが死ぬまでに一度は切ってみたいと思ってしまうような、信じられないほど美しい髪なのでした。この髪を切ってみたいという欲求がどうしても抑えきれず、私はつい承諾し、じょきじょきと彼女の髪を切り始めたのでした。

 しかし終わってみると、やはり結果は散々でした。自分としては短めのボブカットにしたつもりだったのですが、どちらかというと頭がはげていない落ち武者のような、見るも情けない髪型になっていました。申し訳なくて、私は幽霊の女の子にひたすら頭を下げましたが、女の子は無表情のまま立ち上がると、またドアから外に出て行ってしまいました。追いかけようとするとドアにはやっぱり鍵がかかっていて、慌てて鍵を開けて外に飛び出してみても、ただ薄暗い夜道がまばらな電灯に照らされているだけでした。私は女の子の期待に添えられなかったことと、あの美しい髪を自分のへたくそな散髪で台無しにしてしまったことで、どうしようもなく落ち込みました。その日はそのまま荷物をまとめて、すぐに家に帰って寝てしまいました。床に落ちた女の子の髪は、気がつくとどこにも見当たらなくなっていました。

 しかし次の日、同じように一人で残って特訓していると、また女の子はやってきました。しかも驚いたことに、あの美しい髪が私が切る前の長さに戻っています。女の子は前の日と同じようにイスに座ると、切ってほしいと言わんばかりの空気を漂わせながら、私の顔をじっと見つめてきました。

 それから私は毎晩、女の子の髪を切るようになりました。女の子の美しい髪はいつも次の日には元通りの長さに戻っていて、その都度私はそれにハサミを入れていきます。結果はいつも散々でしたが、女の子は表情を変えず、一言も文句を言わないで黙って店を出て行きます。そして女の子が帰るのと同時に、床に落ちた女の子の髪も溶けるように消えていきます。恐らく私を気遣って、見えないところまで来てから髪を戻しているのです。そんな様子を見ているうちに、私はいつも申し訳なくなって、次こそは成功させるとその度に誓い、さらに猛特訓に励んだのでした。

 が、練習用の人形を相手にするのと、本物の客を相手にするのとでは上達の度合いが全然違うのでしょう。女の子が現れるようになってから私の腕はみるみる上達し、そのうちとうとう店長に本物のお客さんを任されるようになりました。最初のうちは失敗ばかりでしたが、それも次第に少なくなり、やがてなんとか一人前くらいの働きができるようになりました。その間もずっと、私は夜の店に一人で残って、延々と元に戻る女の子の美しい髪を切り続けました。女の子は終始無言で、一度も表情を変えることはありませんでしたが、私の散髪がどんどん上手くなっていくのを喜んでいるような気がしました。

 不況の煽りとライバル店の進出によって、店が取り壊されることが決まったのはその矢先でした。

 最後の日、私は女の子に、どういう髪型にしてほしいか尋ねました。これまでは女の子が何も言わなかったので、私が勝手に決めていたのです。すると女の子は、店の奥に並ぶ練習用のマネキンのうち、一番右端のものを指差しました。それはとても髪が長く、今の女の子の髪の長さとほとんど変わらないような代物でした。正直、切る余地はほとんどありません。仕方がないので私は毛先を少し整える程度にして、それから女の子の美しく長い髪を櫛でゆっくりと梳きました。髪は本当に美しく、絹のような張りと艶があり、吸い込まれそうな深みのある色をしていました。私は今までこんなに素晴らしい髪を毎日のように切ることができて本当に幸せだったと、強く強く痛感しました。

 散髪が終わり、女の子は立ち上がると、これまでと同じように無表情で黙ったまま、ゆっくりと出口に向かって歩き始めました。電灯の光の中で、女の子の髪はまるで洗いたてのレースのように膨らんで、きめ細かい光を反射していました。それを見ているうちに私はたまらなくなって、気がついたら大声で女の子に向かって叫んでいました。

「これまで本当に、ありがとうございましたっ!」

 外に出ようとしていた女の子はちょっとびっくりしたのかぴくりと震えて、それからゆっくり私に向かってお辞儀をしました。それから颯爽と店を出て、そして二度と戻ってきませんでした。私はひとつの日々が終わったことを思い、後片付けをするために掃除道具を取り出しました。しかしその時気付いたのです、今回だけは女の子の美しく輝く髪が消えていないことに。

 以来、私はその髪の切れ端をいつも持ち歩いています。端を揃えただけだから束ねるほどの長さもありませんが、それでもその髪は、私の初めてのお客さんが、命とまで呼ばれるものを少しだけ分けてくれた宝物なのです。今では私も自分の店も持つようになり、それなりに食べていけるようになりましたが、これを見るたびに私は、もっともっと上手くなろうと、そう思ってしまうのです。


(039 [散髪] 残り髪/終)


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