嫁の仕事


「ロウテンさま、ちょっとおしぼりさとっかえてきますべ、待っててな」
 魄が水の入った桶を抱えて外に消える。おれは霞んできた目をよく凝らし、その後ろ姿をじっと見送る。魄の着ている黄色い着物の裾が戸板の外に見えなくなる。外の暗闇の中では無数のこおろぎがりんりんと鳴いていた。
 いつのことだったか、死ぬなら虫の鳴き声の中が良いと魄に言い、そしてそれが現実になりつつあることを思う。
 おれはもう長くない。自分の年なんてよく覚えていないが、数えで七十を遥かに超えているのは間違いない。最近は起き上がるのもおっくうになり、外の畑のことはみんな魄に任せっきりだ。まして里の人間の顔なんて一年は見ていない。もうしばらく前からずっと、魄と二人きりの世界に生きてきた。
 おれが死に、残された魄がどうなるかを考える。
 ただの人間であるおれとは違い、鬼である魄はまだまだ若い。暴れ回っていた魄を調伏した頃のおれはまだ二十かそこらの若造だったが、それからずっと、魄の外見は当時から今までほとんど変わっていない。頭の角さえ隠していれば、美しい娘だと人は言うだろう。こんな娘と一緒に暮らせておれは幸せだった。最初は義務感からだったが、いつの間にか本当の家族のように思っていた。
 おれの死後、一人残される魄のことだけが気がかりだ。
「お待たせしましたべ」
 戻ってきた魄がおれの額に手ぬぐいを乗せる。おれは細く衰えた指を伸ばし、魄の柔らかい手のひらに触れた。魄はおれの指に気がついて、布団の横にちょんと座ったまま、にこりと笑った。
「何か言いたいことでもあるのけ? なんでも仰ってくださいな、ロウテンさま」
 優しい娘だ、と思う。昔はさておき、今は本当にいい娘だ。
「いいか、おれが死んだら、里を頼れよ。この家には住み続けてもいい。けれど、絶対に一人きりにはなるな。里の人間と、力を合わせて暮らしていくんだ」
「またその話ですか? もういい加減聞き飽きたっぺよ」
「何遍でも聞くんだ。最初は信じてもらえないかもしれない。昔のこともある。目付け役のおれがいなくなったら、お前がまた暴れ出すと考える奴も出てくるだろう。けれど付き合うことを諦めるな。お前は鬼だが、鬼には鬼にしかできないことがある。お前はその力で里の人々を守るんだ。いつかきっと、里のみんなもわかってくれる日が来る」
「はいはいはいはい。よっく心得ておりますだよ」
 つとと魄は立ち上がって、炭を何本か囲炉裏にくべた。炎がはぜる。小屋が少しだけ暖かくなる。おれを見下ろす魄の顔にわずかに赤みが増す。
 この顔だけは不幸にしてはならないと思う。
「魄、聞いているか魄」
「はいはい。聞いてますってば」
 面倒そうに、だけど楽しそうに魄は笑う。その顔がやがておれの死に曇り、里の迫害に歪むことを考え戦慄する。その時にはおれはもういない。魄は一人でつらい道を切り開いていかなくてはならないのだ。
 不安で不安で仕方がない。
「なあ魄、おい魄、」
「はくはくはくはくうるさいなあ。そんなに呼ばんでも、おらはちゃんとここにいるから心配しないでけろ」
「そういう意味じゃなくてだな」
「それにな、ロウテンさま。さっき里の人間と付き合えって仰ってたけどな」
 魄がそっとおれに顔を寄せる。若い女の柔らかい匂いがする。外のこおろぎの声が小屋に響き、りんりん、りんりん、鬼と人間を優しく包みこむ。
 耳のすぐ傍で唇が動き、艶かしい声が鼓膜をそっと震わせた。
「おらが操さ立てたのはロウテンさま一人だけだから、他の男と付き合う気なんかないべ」
「……んっ、なっ」
 たまらない匂いを感じて、思わず口篭ってしまう。
「あはははは。冗談だっぺよー」
 魄は満面の笑顔で、おれの皺だらけの顔をそっとつついた。
「ロウテンさまはほんと昔から、そういう冗談にはいつまで経っても慣れないべなー。うふふ、楽しいなあ。もうおじいちゃんなんだから、この手の話にはいい加減慣れてくださいな」
 三つ子の魂百までと言うだろう……と言おうと思ったら、そっと口を押さえられた。
「なあロウテンさま。そんなに心配しなくても、おらはおらでちゃんとやっていくから大丈夫だべ」
「……む」
 魄は魄で必死に明るく振舞おうとしているのだ。おれは何も言えなくなる。
「ならいいが」
「そうそう。わかったら大人しくしてけろ。今おかゆ作りますからね」


 ロウテンさまは安心して寝てくれたようだ。起こさぬようにそっと戸板を開け、金棒片手に外に出る。秋の夜風が頬を撫でる。こおろぎの声は、魄が家を出るしばらく前にはすでに止んでいた。
「……ロウテンさまの言う通りになってたら、何もかも良かったんだけどな」
 実際のところ、里との仲違いはもう決定的なものになりつつあった。もちろん魄自身は悪いことなど何ひとつしていないという自負がある。飢饉に飢えた里にこの畑の作物を少しずつ渡していたら、いつの間にか増長した連中に、どうせ鬼風情には不要なものだろう、この畑と家を大人しく渡せとまで言われるようになった。人間なんて勝手なものだと思う。ロウテンさまは仲良くしろと言うが、先に裏切ってきたのは向こうではないのか。
「作物なんかいくらでもくれてやる。けどな、この家と畑まで渡すつもりはないべ」
 二人で荒地を耕し、苦労して建てた家と畑なのだ。ここにはこの五十年のほとんどが詰まっている。この場所を渡すということは、魄にとってロウテンさまとの月日まで渡してしまうことに等しい。向こうが態度を改めなければ、こちらもそれなりの手段に出る覚悟があった。
「誰が言ったか、嫁は主のいない間、家を守るものだ……だっけかな」
 家と畑を夜通し見張り続けるため、それなりの厚着はしてきたが、それでもまだ少し冷え込む。鬼は風邪なんてひかないが、それでも寒いものは寒いのだ。
「嫁……嫁かあ。いい響きだなあ」
 魄は自分の言った言葉に少しだけ酔いしれて、うふふと笑った。


(040 [鬼嫁] 嫁の仕事/終)


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