鏡の彼


 わたしはずっと、恋をしている。
 彼の名前は知らない。どこの誰かもわからない。それどころか、人間かどうかも怪しい。見た目はただの人間なのだが、どう考えてもただの人間ではありえない。
 彼は鏡の中にいる。
 鏡の中で、いつも後ろからわたしの体をそっと抱きしめていてくれるひと。それが彼だ。だが現実にはそんな人の姿はなく、彼の体に触ろうとしても、わたしの手はむなしく空を切るばかりだ。もちろん体温も気配も何も感じない。ただ鏡の中にだけ、彼の存在を確かに感じられる。彼はいつも優しく微笑んでわたしをそっと抱いている。濡れたような前髪と端正な表情が、じっと鏡の中からわたしを覗き込んでいる。わたしは照れて鏡から目を離す。鏡を覗き込んでいるはずのわたしは、いつのまにか覗き込まれる側に回っている。もう、どっちが現実で、どっちが鏡の中なのかわからない。
 たぶんわたしか彼の、どちらかが幻想の存在なのだろう。

 最初に彼の姿を見たのは、いつのことだかもうよく覚えていない。小学生の時だったのだと思う。朝起きて、鏡を見たらそこにいた、そんな感じだ。もちろん幼い私は大騒ぎして彼のことを周囲の人に伝えたが、誰も信じてくれなかったのですぐにわたしは口をつぐんだ。それから、彼のことはわたしだけの秘密になった。

 中学生になった頃から、彼のことが次第に恋愛対象として気になってきた。彼はわたしの知る限りの他の誰よりも美しかった。テレビの中のアイドルや俳優の笑顔ですら、ずっと変わらない彼の微笑みに比べると、何の魅力も感じられなかった。他のクラスメイトが騒いでいる「ちょっとかっこいい」男子も、わたしから見るとどこにでもいる普通の少年にしか見えなかった。わたしは彼の存在を内心で自慢に思い、秘密を誇った。わたしはこんなに素敵なひとに抱かれている。そう思うだけで幸せだった。

 高校時代、彼への想いはますますヒートアップしていった。授業中も登校中も友達と遊んでいる間も自分の部屋にいる間も、ずっと彼のことしか考えられなかった。暇さえあれば鏡を覗き込み、彼の手が回っている自分の肩にそっと手を伸ばした。当然ながら、そこには何もない。だがわたしはそれでもかまわない、と思った。そこにいるのは事実なのだ。わたしは彼と会話もできなければ触れることもできない、聞くことも感じることもできない。しかし、そんなことはどうでも良かった。わたしはただ見えるだけの彼に生涯寄り添って生きていこうと思った。鏡の中からわたしを見る彼には、それくらい尽くすだけの価値があるように思えてならなかった。

 大学に入り、わたしには親しくする友人が何人かできた。新しくできた友人たち、その中には男の子もいた。そのうちのひとりが、いつしか頻繁にわたしを誘うようになった。どうやらわたしに気があるようだった。彼といるのは楽しかったが、しかし、わたしには鏡の中のひとがいる。他の誰かと付き合うつもりはなかったので、ある時、きっぱりとわたしは彼に言い放った。わたしには好きなひとがいる、と。毎日、そのひとはわたしを抱きしめてくれているのだ、と。うそだ、と彼は震える声で呟いた。幻かもしれないが、少なくともうそではないことをわたしは知っている。わたしはそのひとのことだけを考え、にっこりと笑ってじゃあね、と言った。

 それから、その彼の様子がおかしくなった。わたしの行く先行く先あらゆるところにつきまとい、常にわたしの様子を観察しているようだった。どうやらわたしの話が本当かどうかを確かめるつもりらしかった。しかし、鏡の中のひとはわたし以外の人には見えない。いくら探してもわたしの生活のどこにも男の影が見えなかったからだろう、彼は再びわたしを呼び出した。そんな男なんてどこにもいないだろう。俺をだましやがったな。そもそもお前なんかを抱いてくれるような男がこの世にいるかよ。鏡の中のひとの存在を知っているわたしは反論する。だましてなんかいない。あなたには見えないだけで、そのひとは今もわたしを抱きしめているのだ。鏡の中で。これは流石に彼も困惑したのか、動きが止まった。わたしは肩に手を伸ばす。当然ながら、そこには何もない。だが彼はいる。帰ったら、今日もめいっぱい可愛がってもらおう。そうやって生きていこう。わたしはそのひとのことが好きで好きで仕方がないのだ。反応のなくなった彼をわたしは置いて去ろうとした、その時振り返ると、彼が今まさにわたしにナイフを振り下ろすところだった。

 発見された時、周囲は血まみれで、ふたりとも死んでいると思われたそうだ。が、死んだのは彼ひとりだった。わたしは瀕死だったが、一命をとりとめた。彼の無理心中はどうやら失敗に終わったようだった。全身包帯巻きで身動きの取れないわたしは命拾いしたことを神に感謝したが、しかし包帯が取れるより先に、わたしは絶望の底に突き落とされることになった。

 わたしの視覚は奪われていた。

 それから、わたしは怖くてたまらない。鏡を見ることができない、たったそれだけのことで、中のひととのつながりが完全に途切れてしまった。それがたまらなく悲しくて、悔しかった。それに比べれば、他に何も見えなくなったことも、死にかけたことも、ものの数ではなかった。今もそのひとはわたしの後ろにいるのだろうか。いるのだろう。そう信じるが、それを確かめることができない。いつそのひとがわたしを見限って去っていくとも限らないのだ。そしてもしそうなってしまった時、わたしにはそれを知る術はない。何もない空白に向けて、延々と語り続け、想い続ける生活が始まる。それはとても耐え難いことのように思えて、怖くて怖くて仕方がない。その時こそわたしは本当に狂ってしまったことになるのだろう。これが死んだ彼の本当の狙いだったのだろうか。今となってはそれもわからない。

 しかし、本当に怖いのはそんなことではない。今のわたしにできることは、今も後ろにいるであろう彼の存在を信じて、今までと同じように語りかけ、愛することだけだ。鏡の中にも、現実にも、どこにも彼がいなくなったのだとしても。だがそれは今までの生活と何が違うのだろう? 違いといえば、わたしの目が見えなくなったことだけだ。あとは、彼に触れないことも、語り合えないことも、周りの誰にも彼が見えないことも、何も変わらないのだ。何より、わたしは今もその人のことが好きで好きでどうしようもない。今までとまったく同じように。なら何が違う? 何も違わない? 今のわたしが狂っているなら、今までのわたしも狂っていたのだろうか? 今は何より、それが怖くてたまらない。

 彼の手があるはずの、自分の肩にそっと手を伸ばす。当然ながら、そこには何もない。


(046 [虚像] 鏡の彼/終)


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