じいちゃんの麦畑


 じいちゃんが行方不明になった。

 家族は大騒ぎしていたが、僕にはひとつ心当たりがあった。麦畑だ。大地主のじいちゃんはこのあたりのいたるところにいろんな土地を持っているが、その中のひとつに、隣町の麦畑がある。昔、まだ僕が中学生くらいだった頃、じいちゃんが死ぬ時はその麦畑のど真ん中で死にたいと言っていたのを思い出したのだ。
 じいちゃんは自らの死期を悟り、麦畑の中心へ向かったに違いない。

 僕は身支度を整え、すぐに隣町へと出かけた。家族には言わなかった。じいちゃんが僕にだけ麦畑のことを話してくれたように、僕も麦畑のことは秘密にするべきだと思えたのだ。朝イチのバスに乗って隣町へ行き、家の資料でこっそり確認した住所を頼りに麦畑を目指した。さっさと行って、とっととじいちゃんを見つけて、すぐに連れ帰ってこよう。そんな考えがどれほど浅はかだったかを、僕は実際に麦畑を目の前にして痛感した。

 麦畑はあまりに広かった。

 広い。広すぎる。ここに来るまで、せいぜい野球ドームひとつ分くらいの広さだろうとばっかり思い込んでいたが、とんでもない。麦畑は地平線の彼方まで続いていた。遠くに見える山々も、全て麦に覆われていた。浜辺に立って、曇り空の海を眺めた時の感覚に近い、と言えば少しは伝わるだろうか。僕の足元から始まっている麦畑は、僕のまだ知らない世界のほとんどを埋め尽くしているように思えた。そこにあるのは空と太陽と、そして圧倒的なスケールを誇る麦の海だけだった。
 その中に、細く長い道が一本続いているのが見えた。これが中心に向かう道だ、と僕は直感した。近寄って目を凝らすと、確かについ最近、誰かがこの道を通った足跡があった。間違いない、じいちゃんはこの先にいる。僕は一も二もなく足跡を追いかけた。

 細々と伸びる麦の道は、しかし決して途切れることはなく、退屈な風景だけをいつまでも僕に見せ続けていた。秋の風は心地良かったが、その風にたゆたう麦の穂波を見ていると何故だかたまらなく切なくなった。僕という存在が麦畑の中に開かれて、片っ端から中身が解き放たれつつあるような錯覚に陥る。ふと思い出す。じいちゃんはあちこちに土地を持ってはいたが、滅多に家から出ることはなかった。何故なのだろう。他の土地もこんなに広くて、そして恐ろしい場所なのだろうか。それとも、やはりこの麦畑だけが特別なのだろうか。耳を澄ましても、麦が揺れる音しか聞こえない。満ち足りた音にも、空っぽな音にも聞こえた。麦畑は続く。前を見ても後ろを見ても麦、麦、麦。秋の光が麦を金色に照らしあげる。けれどそこには麦しかない。麦に満ちているこの場所は、どうしようもなく空白だった。その中を、僕はすがるようにして、微かに続く道を辿り続けた。

 昼前から歩き始めて、なんとなく空がオレンジ色に染まってきた頃だろうか。麦畑の中に、黒い点のようなものが見えてきた。目を凝らすと、黒い岩のようなものが、麦畑の真っ只中にぽつんと浮かんでいるのだった。あれが中心だ、と僕は直感した。あそこにじいちゃんもいるはずだ。くたくただったけど、僕は駆け出した。早く、岩の傍に行きたかった。こんな何もない場所はもうこりごりだった。

 じいちゃんは岩に背を預けて、地面にへたりこむように座っていた。慌てて駆け寄ってみると、すうすうという寝息が聞こえる。生きていた。僕は安堵のあまり、じいちゃんの横に同じようにしてへたりこんでしまった。背中に感じる岩の感触に、心の底から救われたような気分になった。
「おい、ケンジ。どうしてお前がここにいる」
 じいちゃんが目を覚ましていた。僕はむっとして、じいちゃんを探しに来たに決まってるだろ、と言い返した。じいちゃんは少しだけ目を薄めたあと、そうか、お前にはこの畑のことを話したんだったな、と呟いた。
「まだ覚えていたとは。そうか、覚えていたのか」
「あんな内容の話、忘れることなんかできるかよ」
「おい、ここのことは……」
「誰にも言ってない。それで良かったんだろ?」
 じいちゃんは、見直したように僕を眺めて、それから、わかってるじゃないか、と言った。
「本当はお前にも話すべきではなかったのかもしれん。理由はわかるだろう」
 わかる。この麦畑をこの目で見るまではわからなかったが、今ならはっきりとわかる。
「本来なら、ここはお前にはまだ早すぎる場所なんだがな…」
「なぁ、じいちゃん。こんな場所がこの世にあったんだな」
「このくらいの場所なら、この世のどこにでもあるさ」
 それからしばらく、僕とじいちゃんはぼんやりと肩を並べて座り込んでいた。疲れと安心で体の力が抜けきっているのを感じながら、僕はじいちゃんの言葉を頭の中で繰り返していた。このくらいの場所なら、この世のどこにでもある。それはどうなのだろう、と思った。こんな場所がどこにでもあるなんて信じられなかった。少なくとも僕は、こんなに恐ろしい場所を見たことがない。文字通りの意味なのか、それとも何かの比喩なのか。よくわからなかった。
「ところで、じいちゃん」
「ん?」
「この麦畑って、やっぱり全部じいちゃんの持ち物なのか?」
「そうだ。わしが死んだらお前にやる。そのための手続きもしてある」
「いらねえよ」
 持っていたって、たぶん、いや絶対ここには来ない。
「そう言うな。わしもわしのじいちゃんから引き継いだ。こうやって代々受け継がれているのさ。
 さあ、帰るぞ」
 僕はあっけにとられてじいちゃんを見上げていた。
「……死にに来たんじゃないのかよ」
「さっきまではな。だが、お前が来た時点で意味がなくなったんだよ」
 そうかもしれない、と僕は思った。それほどまでに、じいちゃんの存在が、自分以外の誰かの存在が大きなものに感じられたからだ。麦畑の怖さは半減していた。ここは誰かと一緒に来てはいけない場所なのだ。
「ほれ、立て。ぼさぼさしてると今日中に帰れなくなるぞ」
 何か反論しようかと思ったけど、やめた。僕は立ち上がって、前後左右あらゆる方向にただ広がっている空白を見た。斜陽が麦穂波を照らしている。きらきらとした金色の粒が麦の大地いっぱいに輝いていて、何故かとても悲しい気分になった。


(047 [麦畑] じいちゃんの麦畑/終)


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