チョコレートの私(その3)


 マルナはサワデスの笑顔だけを思い浮かべながら、隣村の集会場に向けて一心不乱に走りました。体力はとうの昔に限界を超え、すでに頭も疲労のあまり麻痺しかけていましたが、サワデスへの恋心だけがマルナの体をひたすら突き動かします。昨日から何も食べていないので、腹の虫がひっきりなしにぐうぐう鳴っていましたが、そんなことを気にする暇はありません。マルナは普通の恋する乙女なので、他の何を引き換えにしても、この想いだけはどうしても譲れないのです。

 マルナはこんな女の子ですから、普段、同じ村の人達からはまるで空気のような扱いをされています。誰も助けてなんてくれません。いつもひとりぼっちです。だから、転んだ自分にサワデスが手を差し伸べてくれた時、本当に、本当に、本当に、泣きたくなるほどマルナは嬉しかったのです。

 途中で何度も転びながら、マルナは懸命に集会場を目指しました。すでに背中のチョコはぼろぼろで、右手と左足がどこかへ吹き飛んでしまっていましたが、マルナにはそれに気付く余裕すらありません。引きずるようにして、這うようにして、血走った目でマルナは前進します。その視線の先には、サワデスの顔だけがあります。恋する女の子にとっては、他に何も要りません。

 やがて、木々の緑の向こう側に、小さく集会場の赤い屋根が見えてきました。それと同時に、なんだかざわざわと人のざわめきのようなものも聞こえてきます。マルナは全身血がにじんで傷だらけの格好で、ついに目前へと迫ったサワデスのもとへ向けて、最後の力を振り絞って歩きました。そして木にしがみついて集会場の入り口を見た瞬間、そこで何が行われているのかを知ったのでした。


 黒いタキシードに身を固めたサワデスと、白いウェディングドレスに包まれた綺麗な女の子が、手を繋いで集会場の入り口から出てきました。二人は多くの群集とやむことのない歓声に包まれ、色とりどりの紙テープや白い紙吹雪がひっきりなしに飛びかっています。サワデスは照れくさいような笑顔を隣の女の子に向け、女の子もまた頬を赤らめてサワデスを見つめます。そして、二人は地を揺るがすような大歓声の中、深く深くキスをしました。


 マルナはその様子を木陰から眺めていました。マルナの心の中で、何かががらがらと崩れていく音がしました。地面にひざをつき、傍の木に手を添えてその場に倒れないのが精一杯でした。

 やがてマルナはくるりと背を向けると、誰にも見つからないうちにとぼとぼと帰路につき始めました。こうなってしまった以上、サワデスの邪魔をするのは嫌でした。背中のチョコレートがべたべたに溶けて背中に張り付いていることにようやく気付き、一歩一歩と進むたび、マルナの顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになってゆきました。そして、背に届く観衆のざわめきが遠くなった頃、ついにマルナはこらえきれなくなって大声で泣き出しました。最初から最後まで無茶苦茶な恋でしたが、サワデスへのマルナの想いは、まぎれもなく本物だったのです。

 しばらく歩いて少し落ち着いた頃、マルナは小さい川を渡る橋にさしかかりました。橋げたから下を覗くと、ごつごつした石で覆われた川岸まで、それなりの高さがあります。マルナはぐすぐす言いながら、背中からチョコレートを下ろしました。チョコレートは右手や左足に加えて右足もどこかへ消え失せて、胴体部分と顔だったもの、そして左手のひじまでしか残っていません。胸もすでにぺったんこです。

 マルナはチョコレートを橋から宙に向けて差し出し、ぱっと手を離しました。落下したマルナのチョコレートはものすごい破壊音を立てて粉々に砕け散り、周囲に茶色い血飛沫を浴びせました。ごろごろ転がった溶けかけのマルナの顔が、石に当たって止まり、無表情で中空を睨んでいました。

 マルナの恋は終わったのです。また涙が溢れてきました。もう一度びーびー泣こうとして、マルナは大きく息を吸い込みました。

 と、その時、背中に向かって男の声がしました。

「……あー、そんな気がしたんだよ」

 振り返ると、サワデスの家の前で水をくれた男が、心配げな顔で駆け寄ってくるところでした。涙と汗と鼻水とチョコレートで見事なまでにぐちゃぐちゃになった顔を見て、やっぱり男は少しビビりましたが、気を取り直して男はタオルを差し出しました。

「サワデスの奴、モテるくせに自覚がないからなぁ。いつもフォローは俺ってのが納得いかないが……。ほら、これで顔を拭いて」

 男はさらに自分の上着を脱ぎ、マルナの肩にかけてあげました。汗と溶けたチョコレートとこれまでの道程のダメージで、マルナの服もすでに薄汚れたボロ雑巾のようになっていたのです。かなり落ち着いてきたマルナを一瞥すると、男はあさっての方向を見ながら、マルナの肩をぽんと叩いて言いました。

「まぁ、長い人生、こういうこともあるもんだ! とりあえず今日は帰って気が済むまで眠りなさい。明日になればすっきりする。じゃ、俺はこれで」

 男は片手を上げると、そのままそそくさと集会場の方へ行ってしまいました。恐らく男の本能がこの女にはあまり深く関わらない方がいいと告げていたのでしょう。一方のマルナはその場に留まって、しばらくしゃっくりあげていましたが、このままここにいても仕方がないと思い、コンチャック村へと歩き始めました。心も体も重くて倒れそうでしたが、手についたチョコレートをぺろりと舐めて糖分を補給すれば、なんとか家まで帰れるような気がしました。

 家に帰ったら、男に言われた通り何も考えずにぐっすり眠ろう、とマルナは思いました。それだけで気が晴れるはずがありませんが、なにせ他にどうしようもありません。それに、今はもう一生サワデスの影を引きずって、他の人を好きになんてなれないようにしか思えませんが、もしかすると何年か経ったら、あるいは数ヵ月後には、ひょっとしたら明日には立ち直れるかもしれません。そしてその時は、今度こそこの想いを伝えようと、マルナは普通の女の子のように固く固く心に誓ったのでした。


(052 [チョコレート] チョコレートの私/終)


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