一枚多い


 最初にあれっと思ったのは、朝食のトーストが一枚多いことに気付いた時だった。あたしの分、ママの分、パパの分。順番に皿をテーブルに置いていくママの手には、誰に渡ることもないはずの皿がもう一枚残っていた。

「変ねえ。なんか無意識に焼いちゃってたのよね」

 そういえばあたしも、ママが食パンを四枚トースターに入れた時、全く違和感を感じなかった。まるで昨日までずっとそうしていたような……。いつものように食卓には椅子が三つ、一人一枚のルールに疑いはないはずなのに。そこに違和感は感じないのに。

 ……なんだろう、この変な感じは。

「ま、いいや。あたし二枚もらっちゃうわよ」

 あたしが何を言う間もなく、ママは余ったトーストをぱくっと口に咥えてしまった。もう結構なボテ腹だってのに、まだ膨らませるつもりなの? 目の前にいる育ち盛り食べ盛りの子供のことなんか無視よ。もう信じらんない。


 次に変に思ったのは、お風呂掃除のことだった。いつものようにお風呂に入ろうと思ったら、普段はピッカピカに磨き上げられているはずの浴槽が、なんだか今日に限って汚い。どうするのよ、これじゃ入れないじゃない。

「ちょっとママ。どうしてお風呂洗ってないのよー」

 腹が立ったので、食卓でつまんないバラエティ見て笑ってるママに大声で文句を言ってやった。するとママったら、変にきょとんとした顔であたしを眺めるのよ。

「何言ってんのよ。お風呂掃除はあたしじゃないわよ。あんたの仕事じゃなかったっけ?」

 へ? あたし……?
 いや、絶対ない。これはあたしの仕事じゃない。だってあたし、洗剤の場所もスポンジの在り処もわかんないんだもん。忘れてるんじゃなくて、最初から知らないの。いやマジで。だからあたしが風呂掃除とかありえない。

 かといってパパが当番なはずもないし、ママと二人で、あんたがやってよ、いやあんたよ、と互いに押し付けあって、結局あたしがやるハメになった。スポンジの場所がわかんないから、割と綺麗なぞうきんを選んで、パパの安いボディソープをつけてゴシゴシ洗う。専用の洗剤じゃないから全然汚れが落ちない。いつもはもっと上手くやってるんだ。誰だかわからないけど、誰かが。

 変だ。何がかはわからないけど、絶対変だ。


 そのあとも似たようなことがちょくちょくあって、あたしの苛立ちはどんどん積み重なっていった。茶碗洗いもママが知らないってゴネるし、食後のお楽しみのデザートも何故か誰も補充してないし、飼ってた犬もいきなりいなくなるし。気が付いたら外の犬小屋から消えてたのよ。逃げ出したんじゃないかって言われてたけど、どうせあたしはそんなに可愛がってなかったし、別に悲しくはなかった。でもおまえが逃がしたんじゃないかって疑われたのは本当に頭に来た。あたしは知らないっつってんのに。ふざけんなよ。

 しかも、一番大変だったのは、そのイライラを治めるストレス解消の方法を全く思いつかないことだった。あたしは結構怒りっぽい方なのに、これまで一体どうやって鬱憤を発散させてきたのかわからないのだ。ヤケ食い? 違う。カラオケ? そんなお金なんかない。何か殴ってた? これが一番しっくりくる気はするけれど、じゃあ何を殴ってたっていうのよ。

 そして、掃除機が見つからないことで、あたしのイライラはピークに達した。風呂場のスポンジとか洗剤じゃあるまいし、なんで誰も置いてある場所を知らないのよ! いつも誰かが使ってるはずでしょ、こんなデカい家電。あたしは使ったことないからわかんないけど、ママが知らないって一体どういうことなのよ。昼には家に彼氏が来るってのに、部屋に掃除機のひとつもかけてなかったら恥晒しもいいとこだわ。もし彼に嫌われたら死ぬまで恨んでやる。

 そんなわけで必死になってあちこちの部屋を探すけど、どういうわけか掃除機はどこにも置いていない。居間にもなく、押入れにもなく、書斎にもなく、あたしの部屋にも、パパとママの寝室にも、ダイニングにも台所にもトイレにも脱衣所にもない。なんで? なんで? ないわけがないでしょ? ムキになって、家中を探す。そしてようやく、階段下にある、古くて暗い倉庫の奥で掃除機を発見した。普段滅多に来ない場所だから、すっかり頭から抜け落ちていたのだ。まったく、余計な苦労かけさせんじゃないわよ。よくよく見ると、すぐ横のバケツに風呂場のスポンジや洗剤が入っている。おいおい、こんなとこにあったのか。

 って。あれ? この部屋……?

 頭に上った血が下りると同時に、あたしはなんだか不思議な感覚に襲われた。この部屋はどうも、「使っていない」という感じがしないのだ。まるで誰かが日常的に住み着き、ねぐらにしていたような雰囲気が漂っている。

 とはいえ、この部屋は物置みたいなもんだから、本来は人が住むことを前提とした作りになっていない。窓もないから明かりといえば裸電球が一個だけだし、床も壁も古びた木材でできてるからすっかり汚くなってボロボロだ。それに階段下だから天井が斜めですごく低く、そもそも押し入れくらいの広さしかない。デッドスペースに無理矢理空間を作った、という言い方がしっくりくるような忘れられた部屋なのだ。

 なのに、この部屋には妙に家具が揃っている。ちょっと変なにおいはするけど、ちゃんと布団も枕もあるし、小さな机も隅に置いてある。机の上のお菓子の箱には小物がいろいろ入っているし、その横には衣服のようなものがぎっしり詰まったダンボールもあった。まるで誰かこの部屋で寝泊りしていた人間がいるみたいな気配に、なんだか背筋が薄ら寒くなる。

 なに?
 この部屋、一体なんなの?
 誰がいたの?
 あたしたちが知らないうちに、誰かがここに住み着いてたの?
 こんな暗くて汚いとこに……。

 机の上にある小物入れの箱を手に取る。消しゴムとか、なんかのおまけの人形とか、他愛のないものばっかりだ。一言で言えば子供のガラクタばかり。そういえば、さっきのダンボールの中の服も、なんだか子供用のサイズだったように見えた。ここには子供がいたの?

 と、箱の下になっていた場所に、何か文章のようなものが刻みつけてあるのが視界の隅に入った。ハサミをぐっと押し付けて強引に文字を彫ったような跡がある。怖いもの見たさで、恐る恐る読んでみる。


 アクマノオマジナイ
 キリトレ キリトレ
 ゼンブキリトレ
 オンソラ ワカニ グラババ ニギャ
 アクマサン イダイナルアクマサン
 キリトリタマエ
 ワレヲココカラキリトリタマエ
 オンソラ ワカニ グラババ ニギャ
 オンソラ ワカニ グラババ ニギャ
 オンソラ ワカニ グラババ ニギャ
 アクマサン アクマサン オネガイシマス
 タスケテ


「ねえ、ちょっと! 聞いてんの!?」

 いきなり背後から声をかけられて、思わずギャッと悲鳴を上げてしまった。涙目で振り向くと、怪訝な顔をしたママが、廊下から部屋を覗き込んでいた。

「いっくら呼んでも返事しないから……。こんな使ってない部屋で何ゴソゴソしてんのよ。結局、掃除機あったの?」

「ねえママ。この部屋って何なの」

「何よ。ただの倉庫じゃない。あたし、ここ気味が悪くて嫌いなのよね」

「なんかここ変なんだけど。誰かいたような妙な感じがする」

「ここに? 誰がよ。うちにいるのはママとパパとあんただけよ。あとどこの誰がいるってのよ」

「それはそうなんだけど。でも机とか布団とかあるし」

「この家を買った時からここは一切弄ってないもの、気味が悪くて。何かあったとしても、前に住んでた人が残していったんじゃないの。それよりあんた、時間は大丈夫なの? もう昼よ。そろそろ彼とやらが来ちゃうんじゃないの」

 慌てて携帯の時刻を見る。あと10分もすれば約束の時間だ。こんなとこでチンタラしてる場合じゃない。あたしは慌てて倉庫を飛び出し、すぐに掃除にとりかかった。今見たものはわけがわからなかったけど、めちゃくちゃ気持ち悪かったので、すぐ忘れることにした。前の住人が置いていったのよ。あのわけわかんない呪文みたいなのもそう。アクマサンとかバカじゃないの。キリトレってどういうことよ。アクマサンとやらが現実から自分を切り離してくれるっていうの? んなわけないじゃない。

 まったく、気持ち悪いったらないわ。こんなこと書く子供はロクな大人になんないわよ、どうせ。あーやだやだ。もう二度とあんな部屋行かない。それより早く掃除機かけなきゃ。あーもー、なんでこんな焦んなきゃなんないのよ。


 それから何日かして、ようやく妙な違和感も感じなくなってきた頃だったと思う。学校帰り、一人で道を歩いていると、背後から変な視線を感じた。振り返ると、犬を連れた小学生くらいの男の子が、物陰からあたしをじっと見つめていた。なんだか妙に薄汚れたガキで、犬も泥か何かで真っ黒だった。昔うちで飼っていた犬に似てるけど、どこにでもいる犬種だからきっと気のせいね。男の子はあたしと目が合うと、怯えて逃げ出すようにどっかに走り去っていった。なんだありゃ?

 ちょっと後を追おうかと思ったけど、面倒くさかったし、なんだか気味が悪かったのでやめておいた。遠目だから自信はないけど、男の子は全身バンソウコウだらけだったように見えたのだ。まるで虐待にあってたような怪我だった。ずいぶん変なガキだったけど、面倒事には巻き込まれたくないし、気持ち悪いから放っておこうっと。


(055 [違和感] 一枚多い/終)


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