特別企画
「MAR」のウォーゲームを考える
(サンデー2004年22号のMAR感想より再録、一部改編・校正あり)


 みなさんこんにちは。へっぽこです。「MAR」は面白いですか? 私はそうでもないです。

 今までいろんな漫画を読んできましたが、正直「MAR」ほど不可解な漫画には出会ったことがありません。つまらないだけなら、「MAR」よりもっとつまらなく感じる漫画は沢山ありました。人気だけなら、「MAR」よりもっと人気のある漫画もこれまた沢山あります。しかし、こんなに私にとってはつまらなく感じる(ネットではこんなに評判が悪い)のに、こんなに人気作扱いを受け、アニメ化、カードゲーム化までしている漫画はこれまでにないのです。正直私には理解ができないのですが……。少しでも理解をしてみようと思ってファンサイトを覗いてみても、そこにあるのは「○○くん萌え〜」「○○ちゃんが大好きです!」といった単発のキャラ萌え発言と、「MARはとっても面白いです!」「私はMARが大好きです!」という根拠の書かれていない賛同発言のみ。色々なファンサイトをチェックしても、コミックスを古本で購入し改めて読みこんでみても、結局「何故あんなに売れているのか」はわかりませんでした。

 そこで私は、とうとう「MAR」の理解を諦めることにしてしまいました。

 ということで普段は週刊ペースでその時その時の内容にネチネチ文句を言っているだけなのですが、今回は少し視点を変えて、「MAR」という漫画を構造的に把握し、どこが悪いのかを考えてみたいと思います。そこで今回は作中で重要な位置を占めている「ウォーゲーム」について注目し、「ウォーゲームを考える上で重要なポイント」をいくつか紹介、これによって「ウォーゲーム」というゲーム、そしてそれにまつわる問題点を考察してみることにします。


<まず、ウォーゲームとは>
 ウォーゲームとは、作中舞台であるメルヘヴン世界を賞品に行われている、遊び好きの破壊集団「チェスの兵隊」と、世界防衛機構「クロスガード」及び主人公チーム「メル」の合流軍とのバトルゲームです。正確に言うなら「ゲームに乗らなければ全世界で暴れるぞ」と脅されているわけですが、ここではどっちにしろ、ウォーゲームの勝敗によって世界の運命が決定してしまうという解釈で問題ありません。当然のことながら非常に多くの人命がかかっているので、負けることは絶対に許されません。世界を守る立場にある「クロスガード」や「メル」の面々は、本来死ぬ気で立ち向かっていかなくてはならない相手のはずです。

 ゲームは1対1のバトルを最小単位としたチーム戦で構成され、戦いの規模ごとに、(1)各成員の個別バトル(大抵「○○vs○○」と個人名で表記されます)、(2)団体バトル(大抵1stバトル、2ndバトルなどと表記されます)、(3)チーム全体のバトル、の三つに分別できます。それぞれの勝利条件、敗北条件は以下の通りです。

戦いの規模勝利条件敗北条件
個別バトル相手を殺す、KOする、ギブアップさせる死ぬ、KOされる、ギブアップする
団体バトル成員の過半数が個別バトルで勝利する成員の過半数が個別バトルで敗北する
チーム全体相手チームのキャプテンを倒す自チームのキャプテンが倒される

 戦闘のルールは至って単純、どのような手を使ってでも、上記の勝利条件のいずれかひとつを満たせば勝利となります。唯一第三者の介入だけは禁じられているようですが、ARMであれば、自らの意思をもつものであっても使用して構いません。当然いくつ使用しても大丈夫です。

 全ての戦闘は個別バトルによって構成され、それらが数戦単位でまとまってひとつの団体バトルに、そしてそれら全ての個別バトル・団体バトルをまとめてチーム全体のバトルと看做すことができます。団体バトルは二個のサイコロの目によって試合数・試合フィールドが決定され、各陣営が誰を試合に出すかをその場の協議で決定し、翌日の試合で勝敗が決定します。

 サイコロを振る係は途中まで中立の立場のレギンレイヴ王女が務めていましたが、現在は審判のポズン(チェスの兵隊)によって行われています。フィールドはレギンレイヴフィールド、砂漠フィールド、火山群フィールド、氷原フィールド、キノコフィールド、そして未登場のフィールドの計六つのフィールドがあります。団体バトルの試合後は再びサイコロが二個振られ、翌日の試合数・フィールドが決定されます。なお、団体バトルは一日ひとつで、三日おきに一日休みが入ります。

 脱落条件についてですが、このゲームでは個別バトルで一度負けてしまっても、生きている限り、その団体バトルで勝利すればまだ再試合に挑めるチャンスは存在します。逆に団体バトルの敗北チームにいても、個別バトルで自分は勝利していれば同じように再試合が可能です。要約すると、脱落するのは「敗北団体の個別バトル敗北者」「個人・団体の勝敗に関わらず死者」の二つの場合のみです。

 そして、以上のような試合を繰り返し、最終的に相手チームのキャプテンを倒すことができたチームが勝利となります。これがウォーゲームの概要です。


<で、何が問題なの?>
 ではここからは、以上の内容を元に、ウォーゲームのどこがダメなのかを分析していきたいと思います。

(a)勝利の無意味さについて
 まず注目するのはウォーゲームにおける勝利条件の設定です。
 先の概要で申しあげた通り、ウォーゲームには(1)個人対個人による個別バトル戦の勝利(2)複数人同士による団体バトルの勝利、そして(3)ゲーム全体におけるチームの勝利という三種類の勝利があります。

  これらの三つの勝敗には優先順位が決まっていて、数字の大きい勝敗は小さい勝敗をカバーできる権限を持っています。わかりやすく言えば、個人で負けても団体で勝てば勝利扱いになるし、個人や団体で負けても、チームで勝てば最終的に勝利扱いになります。

 しかし、この優先順位というのが、実はこのゲームの大きな欠陥のひとつなのです。

 さて、ここでそれぞれの勝利の勝利条件を改めて見ると、以下のようになります。

 (1) 個別バトルの場合は「相手をKOするか殺すかギブアップさせれば勝ち」。
 (2) 団体バトルの場合は「団体の成員の過半数が勝利すれば勝ち」。
 (3) チーム全体の場合は「相手のチームのキャプテンを倒せば勝ち」。

 これらは下に行くほど強い優先権をもっており、仮に(1)(2)においてすべての戦いでそれを達成できたとしても、(3)が達成できなければゲームは自動的に負けになります((3)の優先順位が一番高いから)。従って、このゲームに勝利するには相手チームのキャプテンを倒すだけで充分なのであって、それ以外の相手とのバトルははっきりいってほとんど意味がありません。

 唯一の意味は、強いて言うなら、相手の駒を減らしてキャプテンを引きずり出すのに効果がある、ということだけです。後は仮に個別バトルで勝利しようと、団体バトルで勝利しようと、全体の勝敗にはさほど大きな影響がありません。これではキャプテンの絡まないバトルに緊張感が生まれるわけがないのは想像できますね。これがこのゲームのルールの大きな欠陥のひとつであり、バトルが感情的にしまらない理由(のひとつ)です。

 そして、さらに言うなら、相手チーム(チェスの兵隊)のキャプテンは最強のファントム、こちらのチーム(メル)のキャプテンは主人公のギンタ。どちらも作者によってまず滅多なことでは負けないことが運命付けられているキャラです。これで他のバトル同様、キャプテン戦からも緊張感が抜け落ちてゆきます。結果として、どの試合も緊張感に欠ける、全く締まりのないゲームが出来上がるという寸法です。


(b)将棋・チェスとウォーゲームとの違い
  以上より、ウォーゲームは全体的に緊張感に欠ける、少なくとも「キャプテンの絡まない戦いの意義はほとんどない」ことが明らかにされたのですが、それを言うなら将棋やチェスだってそうじゃないか、という反論が自動的に生まれることになります。

  確かに将棋もどれだけ自駒を減らされても相手の王将(玉将)を取れば勝ちですし、チェスも同様に相手のキングを倒せたなら、それまでどれだけ自陣営がボロボロになってもゲームに勝利することができます。ならば、そういったゲームである将棋やチェスが面白いのならば、ウォーゲームもまた面白いということになるのではないか? ということですね。

  ですが、答えはノー。将棋やチェスとこのウォーゲームの間には、決定的な違いがふたつあるのです。
  ひとつは、敗者サイドへのペナルティに、あまりにも違いがありすぎるという点。
  そしてふたつめは、将棋やチェスに見られる「無条件勝利という制度が、ウォーゲームには存在しないという点です。


(c)敗者サイドへのペナルティについて
  まず最初の点について言及すると、将棋では、ひとつひとつの戦い(駒の取り合い)は全体の戦局において非常に重要な意味を持っています。なぜなら「勝利した方は負かした駒を奪い取って使える」からです。将棋で駒をひとつ取られるということは、単に手持ちの駒がひとつ減るということだけを意味するのではなく、相手の戦力がひとつ増えてしまうということも同時に意味しており、デメリットがとても大きいのです。これに対しウォーゲームでは、相手に敗北してもこちらの陣営には「味方ユニットの削減以上のデメリットはありません

  一方チェスにおいては、この「駒のやりとりのデメリットがユニット削減だけ」という点についてはウォーゲームと同じです。ですが、チェスではウォーゲームと違って、駒の配置というものが大きな意味を持っています。

  チェスでは自分のターンを一回使用しなければ、残存ユニットを動かすことができません。つまり、チェスの駒には「生き残っている」という価値の他に「フィールド上の配置」という価値があります。その駒が取り除かれることのデメリットは、単なる「ユニットの削減」という意味だけで構成されているわけではなく、「ある座標に存在していた戦力の消滅」という意味も含まれているのです。いわば、一度敗北することによって、ふたつの価値が同時に消滅しています。

  これに対してウォーゲームでは、駒の配置という概念とそれに伴う価値は存在しません。あるのは「ユニットの存在」という価値、ただそれだけです。なので、敗北して駒が取り除かれても、デメリットとしてはチェスよりもとても小さくなります。

  わかりやすい例で説明するなら、チェスなら「ここのポーンを倒せば、キングまでの道ができて一気に攻め込めるぞ」となるところが、ウォーゲームだと「ここのポーンを倒してキングまでの道を作っても、他の駒がやってきて道を塞いでしまう」となってしまうのです。だから、チェスにおいては戦略的に敵を倒すことによってその後の展開を有利に運ぶことができますが、ウォーゲームにおいては倒し方に戦略も何もあったものではありません。どんな倒し方をしても、逆にどんな倒され方をされても、結果としてはほとんど変わりがないのです。

  また、以上は主に個別バトルの勝敗での話ですが、団体バトルの勝敗の話となると、他の問題点も見受けられます。
  将棋やチェスでは、一度敗北したユニットは「跡形もなく盤面から強制排除されます
  ですがウォーゲームでは、盤面から排除されるのは「団体の勝敗に関係なく死者全員」と、「敗北した団体の敗者のみ」の二種類です。
  団体で勝っても駒が減る場合もある上、団体で負けても駒が残る場合がある。
  前項で説明した理由によりもともと軽いこと極まりない「個人・団体戦の勝ち負けの価値」が、これでさらに軽くなります。結果的に「勝っても負けてもどうにでもなるバトル」ばかりが増え続け、全体としてのゲームの無意味さがさらに際立つことになってしまうのです。


(d)無条件勝利制度がないことについて
 そして次の点ですが、これは先程よりもずっと話が簡単です。
 平たく言えば、「将棋やチェスでは駒のクラスに関係なく攻め込んだマスの相手を倒すことができるけど、ウォーゲームでは自分と相手のクラス(強さ)の差によっては相手を倒せるとは限らない」、という、ただそれだけのことです。

 将棋やチェスには様々な種類の駒がありますが、これらの種類は駒の強さによる分類ではなくて、あくまでそれぞれの移動パターン・数の多さに根ざした便宜上の分類です。強さ自体はどの駒も平等で、王将が歩兵を倒すことも可能だし、逆に歩兵が王将を討ち取ってしまうこともあります。

 ゆえにこれらのゲームでは「何かの弾みで雑魚によってボスがやられてしまう危険性」が常に存在しているため、ある種の緊張感が終始持続することになります。プラス、戦略次第では最弱駒だけでもゲームに勝てる可能性が存在するので、だからこそ戦略の練り甲斐も生まれます。

 ですがウォーゲームでは、弱いユニットは強いユニットにまず勝てない。歩兵じゃ王将は倒せないのです。これは、この手の戦略ゲームにおいて、致命的だと言わざるを得ない欠陥です。

 なぜなら、これだと強いキャプテンを抱えたチームの緊張感はゼロになってしまうからです。相手がどんな戦略を練ってこようと、ボスが最後に個別バトルにおいて力技で敵を跳ね返せば余裕で敗北を回避できてしまうので、策を練る意味も必要もありません。結局必要なのは「敵のキャプテンより強いヤツを用意する」ことだけになってしまい、つまり力技の勝負以外の何物でもなくなってしまうのです。ゲームとしての戦略性が完全に失われています。これじゃあ、普通にタイマンするのと何も変わりません。一番強いヤツがいる方が勝つんですから。


<で、最大の問題点は?>
 さて、このようにああでもないこうでもないと長々検証してきたわけですが、正直に申し上げまして、ウォーゲームのルールはどこも矛盾してません。

 勝利条件が明確な上、その優先順位もはっきりしていて、裏技的な抜け道も見当たらず、かつ公正な(?)審判もおり、一度決定したルールは変更しないようなので、システム上の不備はありません。面白さは別にして、ゲームとしては一応ちゃんと成立しております。

 ただ、このルールには上で述べてきたような「ゲームとしての面白さを殺すような側面」がわんさとあり、冨樫義博や福本信行の考えるそれとは比べるまでもなく、優れたゲームルールとはとても言うことができないのが現状です。なのでゲーム展開に持っていく前に、もっときちんと考えて欲しかったというのが本音だったりします。少なくとも、チーム全体の勝利条件をキャプテン個人の個別バトルの勝敗に委ねるなんてことさえしなければ、このゲームの緊張感のなさはかなり解消されたはずです。

 ですが、この一連のゲームの本当の問題はルールではありません。
 最大の問題点、それは敵味方双方とも本気で勝とうとする姿勢が見受けられないことです。

 もともと遊びでやっている「チェスの兵隊」サイドはともかく、本来絶対負けられないはずの「メル+クロスガード」サイドですらも遊び感覚でやっているのがおかしいのです。これまでの作中には、どう考えても遊び感覚でやっているとしか思えないような描写が、それこそ星の数ほどありました。

 本気でやっているのなら「気分で戦う順番を決める」ことはしません。
 相手の正体や能力を推察し、(限界はありますが)最適なオーダーを考案・決定するはずです。

 本気でやっているのなら「負けたら終わりのキャプテンを普通に試合に出す」ことはしません。
 なるべく危険は回避するため、キャプテンはギリギリまで試合に出さないようにするはずです。

 本気でやっているのなら「戦闘経験未熟な人物をキャプテンにする」ことはしません。
 万一個別バトルをすることになっても、安全確実に勝利できる人物をキャプテンにするはずです。

 (絶対キャプテンを戦いの場に出さないようにするのならこの手もアリなのですが、参加テストが終了した時点でこちらに6名しか「駒」が残っていなかった以上、いつかはキャプテンを戦闘に出さなくてはならなくなる可能性はとても高くなりますので、この場合はやはりキャプテンに「一番強くて負けそうにない者」、つまりアルヴィスかドロシーをもってくるのがベターと言えます)

 このように、本気で勝利を考えているのなら絶対にやらないはずのことを、いろんな部分で平然と繰り返している。これで口先だけ「世界をかけた戦い」だの「戦争」だの深刻そうなことを言ったところで、肝心の行動がそれに伴ってないんだから緊迫感も何も生まれるわけがないのです。


<結論>
 簡潔にまとめると以下のようになります。

 ウォーゲームというゲーム自体は矛盾こそしていないものの、その内容には勝利条件の設定ミスや脱落条件の軽さなど、「ゲームとしての面白さ」を削ぐような側面が数多く見受けられる。しかし本当の問題はそんなところではなく、登場人物たちが本気で危機感を抱いて戦っているように見えないところにある。

 ゲームの内容的にも問題があるのに、ましてそのゲーム自体をプレイしているキャラたちから本気を感じ取ることもできない。結果として、システム面からも、実際の運用面からも楽しめる要素が失われてしまう。これでは優れたゲームルールと言うことはとてもできません。これでせめて個別のバトル自体は面白ければまだ良かったのですが……それについてはウォーゲームとはまた別の問題なので、この場では割愛させていただきます。


 ということで今回は、「MAR」に見受けられる数々の問題点の中で、とりあえず「ウォーゲーム」だけに絞って考察を加えてみました。この漫画が私として面白くない理由はまだまだ沢山ありますが、それについては、また機会があったら書くということで。こんな長文を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。そして、最後になりますが、「MAR」ファンのみなさんごめんなさい。






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