おてんば恋娘をめぐる冒険



1.

 チルノちゃんがいなくなった。
 
 いつもなら、三十分も湖の周りを飛べば、なんだかんだと騒いでいるところをあっさり見つけられるのに、今日はいくら探してもチルノちゃんを見つけることができなかった。
 いつもの遊び場にも、大ガマさんの棲む湖の中心にも、全然姿が見当たらない。
 どこに行ってもただの水面が続いている。
 氷のかけらもない、ゆるやかな風にかすかにさざめく平穏な水面だけが。

 もっとも、普段なら、わたしだってこんなに心配はしないと思う。
 滅多に湖から出ないわたしと違って、チルノちゃんは湖から離れてあちこちに遊びに行くことが多い。
今日もルーミアちゃんやリグルちゃんの森に遊びに行ったのかもしれないし、適当にそのへんをぶらぶらしているだけなのかもしれない。
 だからわたしも、いつものようにお菓子でも作りながら、チルノちゃんの帰りを待っているべきなのだろう。

 でも、チルノちゃんは昨日大ガマさんとケンカして、ずいぶん痛い目に遭ったばかりなのだ。
 危うく食べられるところだった。
 とっさにわたしが助けに入ったから良かったものの、そうでなければ死んでいたかもしれない。
 だから今日は本来、静かに寝ていなきゃならないのに……
 でも、チルノちゃんはどこかに消えてしまった。

「うん、でも、これはわたしが心配しすぎなだけだよね」

 実際、昨日はいくら死にかけたからとはいえ、そんなに大した傷は負っていなかったような気がする。
 すり傷みたいななんでもない怪我を、わたしが大袈裟に大きく騒ぎ立てているだけなのだろう。
 今頃は元気いっぱいに遊び回っているに違いない。
 うん、きっとそう。
 何も心配するほどのことじゃない。

「どうもわたしは心配性なところがあるから。無事、安心、大丈夫。落ち着いて、はい深呼吸」

 すぅー、はぁー。

 よし、これで大丈夫。さあ、タルトでも作りながらチルノちゃんの帰りを待とう。


 三日後。
 いつまで経っても帰ってこないチルノちゃんをとうとう待ちきれなくなったわたしは、お菓子も何かもを放っぽり出して家を飛び出したのだった。




 2.

「あっ、大ちゃんだー」
「お久しぶり……って何、そんなに血相を変えてどうしたの?」

 チルノちゃんを探しに飛び出したわたしは、まずルーミアちゃんやリグルちゃんのいる森にやってきた。この二人はよくチルノちゃんと一緒に遊んでいるから、今回もそうなのかもしれない、と思ったのだ。  青い顔で慌てて突っ込んできたわたしを見て、二人ともびっくりした顔で寄ってきた。わたしは詰め寄るように二人にまくしたてる。

「あのっ、ちっ、ちる、チルノちゃんをっ、」
「わぁ、気が動転してるー」
「落ち着いて。チルノがどうしたの? なんかあった?」
「ち、チルノちゃんを、見なかった? 最近、ずっと、家に、帰ってこなくて……」

 きょとんとして顔を見合わせる二人。

「いや、そういえばしばらく見てないけど……」
「あたしも。チルノちゃん、あたしが来ると湖が暗くなってやだって言うから、遊びに行けないんだよね」

 はずれ。
 ああ、あとはどこに行けばいいかしら。ええっと、えっと、次はまず、
 お礼を言ってふらふらしながら飛び立とうとすると、リグルちゃんがわたしの腕をぐいっと掴んだ。

「ちょっと大ちゃんストップ! 焦りすぎだよ! そんなに心配するほどのことでもないってば」
「そ、そうかな……」
「そうだって。あいつがそんなにホイホイやられるタマだと思う? きっとちょっと遊びに夢中になりすぎて、家に帰るのを忘れてるだけだよ」

 そうだろうか。そうならいいんだけど、でも、でも。
 わたしが悶々としていると、突然ルーミアちゃんが、ぽん、と手を打った。

「あっ、そういえば、チルノちゃんが何か言ってた気がする」

 なんですって!

「えっ! そ、それは何? どこに行くって言ってたか覚えてない?」
「えーっとね……忘れた。だってずーっと前なんだもん」
「ずっと前って、どのくらい前?」
「ずーっと、ずーっと前。いつだっけ?」

 …………。
 呆然とするわたしの肩を、リグルちゃんが叩く。

「ま、ルーミアはこういう奴だから。そうだね、そんなに心配なら、とりあえずそのへん飛び回ってみて、いなかったら博麗の巫女のところにでも行ってみたら? 噂なら鴉天狗の新聞屋に聞くのが一番いいんだろうけど、あっちはどこにいるんだかわかりゃしないし」

 博麗の巫女。確かに、霊夢さんのところにはいろんな人間や妖怪が集まるから、何か噂が流れ着いている可能性が高いかもしれない。

「ありがとうリグルちゃん、そうしてみる。それと、もしチルノちゃんを見かけたら言っておいてくれないかな。早く家に帰りなさいって」
「了解、伝えておくよ。でも大ちゃんこそ無理しないでよね。なんかチルノより大ちゃんの方がよっぽど危なっかしく見えるよ」
「なーんだっけなぁ〜?」
「ルーミア、それはもういいから」

 手を振って、わたしはまた飛び出す。
 二人のおかげで幾分落ち着いてきたものの、やっぱり不安で不安でしょうがない。
 目を皿のように開きながら、冷気の跡を探す。どこにもそれらしき痕跡はない。
 チルノちゃんはどこにいるのだろう?


「でも、確かに何か言ってたんだよね、チルノちゃん。なんで大ちゃんの顔を見てたら思い出したんだろ……」




 3.

 どれだけ探し回っても結局チルノちゃんを見つけることができなかったので、結局わたしは博麗神社に行ってみることにした。
 霊夢さんは掃除の途中なのだろう、ほうきを脇に立てかけながら縁側でお茶を飲んでいた。
 
「あら。珍しいお客さんね」
「あの、ちょっと伺いたいことがあるんですけど」
「何?」

 事情を話すと、霊夢さんはまたお茶を一杯すすって、ぽつりと答えた。

「うーん、特に誰からもそういう話は聞かないわね」
「そうですか……」
「それに、私の勘もこれといって働かないし。陰で大きな陰謀が蠢いてるとか、そういうこともないと思うわよ」
「い、陰謀は別にいいんですけど……」
「陰謀は別にいいの? ま、ひょっとしたら、妖精一匹死んだ程度の異変じゃ、私の勘はぴくりともしないのかもしれないけどね」

 死……。
 顔色を失った私を見て、霊夢さんは慌ててなだめに入る。

「ちょっとちょっと! 冗談だってば。そんな『不安で死にます』とでも言いたげな顔しないでよ。そんなに心配しなくても、あのバカなら十分たくましく生きてるから大丈夫だって。霧の時も春探しの時も花の時もぶっ飛ばされたのに、未だにぴんぴんしてるでしょ? そんなもんよ」
「……そんなに何度もぶっ飛ばしたんですか?」
「あっ。ひょっとして、知らなかった?」
「はい」

 ちょっとショックだった。

「……まあ、それについては謝らないけど。先に喧嘩売ってきたのあっちだったし。でもさ、何もそんなに必死になって探さなくても、逆にチャンスだと思えばいいんじゃないの?」
「チャンス?」

 霊夢さんが何を言っているのかわからない。

「いつもあのバカのお守りで大変でしょ。だから良かったじゃない、ひとりになれる時間ができて。この際だから、自分のやりたいことでもすれば?」
「……はぁ、やりたいこと、ですか」

 そういう考え方はできなかった。
 不意の意見に虚を突かれ、つい困ってしまったわたしを見て、霊夢さんはお茶受けのせんべいを差し出してきた。

「まぁ、気が済むまで探すのも、それはそれでいいと思うけどね。とりあえずもう少し落ち着きなさい。
 そういえば今、魔理沙の家で何人か集まって何かやってるらしいから、次はそこに行ってみたら? あんた、せんべい平気だっけ?」
「あ、ありがとうございます」

 せんべいを一枚いただきながら、わたしは取り残されたような気分でぼんやりと考える。
 わたしのやりたいことって……なんだろう。




 4.

 魔法の森で見事に道に迷って、ようやく魔理沙さんの家に辿り着いた頃には、わたしはすっかりくたくたになっていた。
 すでに辺りは真っ暗だ。
 窓に明かりはついているが、呼び鈴を鳴らしても全く反応がない。
 どうしていいかわからなくなり、疲れに耐えかねてその場にぺたんと座りこむ。やっぱり反応はない。  呆然としながら月を見ていると、しばらく経った頃にようやく、きぃ、とドアが少しだけ開き、中から見知らぬ女の人がわたしの顔を覗き込んできた。横には、かわいいお人形さんがふわふわと浮いている。
「……あれ、誰? てっきり二色巫女でも来たのかと思ったのに」
「あっと、ここは魔理沙さんのお宅ですよね」
「そうだけど」

 でもこの人は魔理沙さんではないような……。

 お互いに困っていると、騒々しい足音が響き、女の人の横から今度は魔理沙さんが飛び出してきた。

「なに紅白相手に手こずってるんだよアリス。あんなのちょちょいと蹴散らして……あれ、お前は」
「どうも、ご無沙汰してます」
「ねえ魔理沙、この妖精は誰なの?」
「あの冷気バカのお守り」
「あの冷気バカって誰よ」
「うるさいなあ。何でも人に聞かなきゃわからないのかよ」

 無茶な理屈でアリスと呼ばれた女の人を黙らせると、魔理沙さんはわたしを家に招き入れた。
 アリスさんが何か気の毒だったので、一応、チルノっていう氷精のことです、と答えておいた。名前を出しても知らないらしく、反応に困っていたけど。

「悪いな。散らかってて。今ちょっとでかい実験してんだよ」
「あんたの家が散らかってるのはいつものことでしょう?」
「散らかり具合が三割増なのがお前にはわからないのか?」
「鬼やメイドじゃあるまいし。そんなの吹雪と暴風雪の区別をつけるようなものよ」
「全然違うぜ」

 仲が良いとも悪いともとれそうな不思議な会話をしながら、ふたりとお人形さんはずんずん奥へと進んでいく。わたしは床の道具を踏まないよう歩くのに精一杯だ。
 やがて案内された部屋には、もう一人、紅魔館のパチュリーさんが座って本を読んでいた。滅多に屋敷から出て来ない人だから直接の面識はないけど、話に聞いていた人相とぴったり一致するから、たぶんそうだと思う。

「連れてきたぜ、実験体」
「実験体なんか使わないでしょ。あれ? 巫女じゃないのね。魔理沙が『どうせ巫女だからほっとけ』って自信満々に言うから」
「はじめまして、パチュリーさん。湖の大妖精です」
「へえ。なんかうちの司書と気が合いそうな顔」
「顔ですか……でも、小悪魔さんにはいつもお世話になってます」
「あれ、ほんとに知り合い?」

 たまに買い出しなどの小用で館から出てくる小悪魔さんとは、何度か話をしたことがある。とてもいい人……いや、変な表現だけど、いい悪魔と言うべきなのかな。パチュリーさんのことも、その時に小悪魔さんから聞いた。
 そのあたりのことを話したけど、パチュリーさんはあまり興味がないようだった。静かに本に目線を戻す。
 魔理沙さんがフラスコに入った赤い液体を差し出して来たけど、何か怖かったので飲むのはやめておいた。丁重に断ると、魔理沙さんは、そうか、とどうでもよさげにフラスコを乱暴に机に置いた。

「あー、それで、何の用だ?」
「えっと……チルノちゃんを見ませんでしたか?」

 妙な沈黙があった。
 どうしたんだろう、と思って魔理沙さんを見ると、ああ、うん、などと煮え切らない声をあげた。

「いや、お前はそればっかだな、と思って。なんか他にないのか?」

 他の何か……
 霊夢さんにもそういうことを言われた。

「ああ、別に深い意味があって言ったわけじゃないから気にするな。あのバカか? 私にはわからん。悪いな」
「ねえ、そのチルノって言うのは……」
「だから何でもかんでも私に聞くなってば」
「あんたに聞いてないわよ。こっちの妖精に聞いてるの」

 ひょっとしたら、チルノちゃんを見かけていても、アリスさんはそれがわたしの探している相手だと気付いていないのかもしれない。そう思って、身振り手ぶりを交えながらだいたいの特徴を説明したけど、話が終わらないうちにアリスさんは申し訳なさそうに首を振った。

「やっぱり知らないわね。いなくなったのっていつなの?」
「三日前からです」
「ああ、それじゃ知らないに決まってるわ。私たち、それくらいからずっとこの屋敷に篭ってたし」

 今回も手掛かりなし。
 流石に気を落としていると、わたしたちのやりとりには興味がなさそうだったパチュリーさんが、いきなりぽつりと呟いた。

「そういえば」
「何ですか?」
「……いや、違うわね。たぶん関係ないわ」

 それだけ言うと、また無言で本に目を通し始める。
 気になったけど、それ以上追及するのはやめておいた。本人が言っている以上、たぶん本当に関係のないことなのだろうし、こう言ってはなんだけど、独特の近寄りにくい雰囲気がある人だ。
 こういう人とも付き合いのある魔理沙さんの行動力はすごいと、改めて思う。

「それじゃお暇します。お邪魔しました」
「おう。気をつけて帰れよ。道に迷ったら死ぬぜ」
「死なない。でも一応、うちの人形に道案内させようかしら。見たとこ、ここに来るまで随分迷ったんじゃないの?」

 図星だった。まぁ、あれだけ疲れていれば誰でもわかるのかもしれないけど。

「はい、実は……」
「じゃあ上海、森を出るまで案内してあげて」
「リョーカイ、マスター」

 さっきからアリスさんの横に浮いているお人形さんが、ちっちゃい手でびっと敬礼した。
 仕草がとてもかわいらしくて、思わず顔がほころぶ。
 まるでチルノちゃんがもっと小さかった頃のようだ。
 ……まぁ、チルノちゃんのおてんばは、昔も今と変わらなかったけど。

 と、お礼を言って部屋を出る前に、なんとなく聞いてみた。

「ところでみなさんは、集まって何をしてるんですか?」
「ん? ああ、新しい魔法の研究だぜ。アリスをとっちめるための」
「こらこら、本人がここにいるわよ」
「あの、魔理沙さんは、やりたいことって……ありますか?」
「あるぜ。無数に。それがどうかしたか?」
「ごめんなさい、なんでもないです」




 5.

 上海ちゃんは夜の森をすいすい飛んで行く。
 見ていて木にぶつかりそうで怖いけど、不思議とするりするりと避けていくあたり、こう見えてかなりの弾幕を潜り抜けてきた経験があるのかもしれない。
 むしろ、その後ろをついていくわたしの方が、よっぽど何度も木に頭をぶつける始末だった。
 何度も通った道なのか、迷いのないその背中が妙に頼もしい。

「上海ちゃん、すごいね」
「ジャマスルモノハ ケシトンジマエー」

 ……魔理沙さんの影響かしら?
 まぁ、チルノちゃんも、こういうことは言うけれど。

 結局、今日一日探し回って、チルノちゃんは見つからなかった。
 この周囲一帯、特にチルノちゃんがいつもいるような場所にはどこにもいなかった。
 明日はもっと遠くまで、それこそ竹林や人間の里や冥界まで行かなくちゃいけないかもしれない。とはいえ、チルノちゃんがどこまで行ったことがあるのかは、詳しく知らないけれど。

 こんなことなら、もっと普段からチルノちゃんにくっついて飛び回っていれば良かったと思う。
 チルノちゃんが生きている世界の広さをわたしは知らない。
 わたしの知らない場所を、わたしの見たことのない風景を、きっとチルノちゃんはたくさん知っているに違いないのだ。
 失敗の分だけ経験も多い、密度の濃い日常。

 わたしはというと、チルノちゃんの世話を焼きながら、湖でぼんやりとしていただけだ。
 何もしていない。
 何もせず、何をしたいとも思わず、ただ淡々と生きてきた。

 何をしたい?

 霊夢さんや魔理沙さんにそう問われた時、わたしはびっくりした。
 そんなに簡単な問いにも答えられない自分に。

 スペルカードもなく。
 名前もなく。
 これといった特徴があるわけでもない。
 わたしはずっと、そういう存在だった。
 今まではそれでも良かった。チルノちゃんがいたから。
 けど、もしチルノちゃんの身に何かあったら……

 この不安は何なのだろう。
 チルノちゃんが心配だ、というのも確かにある。
 でも、この押し潰されそうな気持ちは、きっとそれだけじゃない。

「ねえ、上海ちゃん」
「ナァニ?」
「上海ちゃんは、何?」
「シャンハイハ マスターノ オニンギョウ ダヨー」

 そうだよね。
 じゃあわたしは、何なのかな……?


 森を抜けて上海ちゃんと別れたあと、家に帰ってわたしはすぐベッドに潜った。
 でも、いろんなことを考えてしまって、結局ほとんど眠れなかった。




 6.

 本当なら、すぐにでも飛び立ってチルノちゃんを探しに行くべきなのだろう。
 けれど翌朝になっても、わたしはすぐに出発せず、ぼんやりと湖のほとりに佇んでいた。
 朝の湖は太陽の光を反射して、細かい光の粒を巻き散らす。膝を抱えて水面を眺めるわたしの目には、今朝の湖の輝きはやけにまぶしかった。

 まるで何事もなかったかのような湖。
 見ていられなくて、膝の中に顔を埋めた。
 
 ほとんど寝ていないせいか、頭の中に薄い靄がかかっているような気がした。靄の中にチルノちゃんの顔がうっすらと浮かんで、あてもなく漂う。

 チルノちゃんは、どこにいるんだろう。
 竹林の奥?
 人間の里?
 冥界?
 それとも、彼岸?

 もし……
 もし、どこにもいなかったらどうしよう。

 もし、万が一、チルノちゃんがこのままわたしの前から消えてしまったとしたら。
 わたしはどうなってしまうんだろう。

 取り残されたわたしは、何になってしまうんだろう。

 チルノちゃんの他に何もないわたしは、たぶんその時、自分を見失ってしまう。
 今ならはっきりわかる。
 チルノちゃんがわたしを必要としているんじゃない。わたしがチルノちゃんを必要としているんだ。
 もし、あの子を失ってしまったら、わたしは――

「ああ、いたいた。探しましたよ」

 不意に聞こえた声に顔を上げると、知らない誰かがわたしの顔を覗き込んでいた。
 とても身軽そうな印象の人だった。肩に鴉が止まっているせいばかりでもなく、全身から羽のような軽さとしなやかさが溢れかえっている。
 それに、わたしの使うものとは比べものにならないほどの、かなり強い風の力も感じる。相当腕の立つ人のようだ。

「はじめまして、大妖精さん。文々。新聞の敏腕記者、射命丸文と申します」

 文さんはわたしの横にちょこんと座ると、懐から慣れた仕草で手帖を取り出した。

「ずいぶんお困りのようで。リグルさんから聞きましたよ。正確には、リグルさんの蟲から、ですけど」
「リグルちゃんが……」

 そういえば昨日会った時、噂を聞くなら天狗の新聞屋がいいと言っていた。
 きっと、困っているわたしを見かねて、蟲さんを使って文さんを探してくれたのだ。あとでお礼を言わなきゃ……。

 そんなことを朦朧とした頭で考えていると、文さんはわたしを見て眉をひそめた。
 
「……なんか、酷く疲れていますね」
「そうですか?」
「そう見えます。ひょっとして、お探し物の途中で、何か大変な事件にでも巻き込まれたんでしょうか?」

 いきおい、文さんの目にぐっと力が入る。悪気はないのだろうけど、今のわたしには少し辛い。

「いえ、そういうわけではないですよ。わたしの個人的な、ほんの小さなことなので」
「そうですか……記事になりそうにはないですね。それで、私にご用件というのは?」
「はい、ちょっと伺いたいことがありまして」

 あまり詳しい話までは聞いていなかったらしい。
 幸いにも文さんはチルノちゃんのことを知っていたらしく、話はすぐに通じた。
 ひと通りわたしの話を聞いて、文さんは手帖の頁をぱらぱらとめくる。

「えーっと、これね。いなくなったのは四日前ですよね?」
「はい」
「良かったですね。幸いにも、その日のチルノさんの目撃証言が一件ありました」
「えっ!」

 昨日探し始めてから、やっと見つけた初めての手がかり。
 あれだけ探しても何もわからなかったのに、文さんの手にかかると一瞬のことだった。蛇の道は蛇ということなのかもしれない。
 あまりにあっけなくて、しばらく声が出てこなかった。

「ある建物の中に入っていくのを、通りがかりの妖精が見ていたんですよ。珍しい組み合わせだったもので、念のためメモしておいて正解でした」
「そ、それはどこの建物の」
「でも、ギブアンドテイクを抜きにして、このままあっさり教えてしまうのもなんだか……」

 そこで言葉を止め、文さんはわたしの顔を見た。
 そして、少し何かを考えたあと、諦めたような顔で手帖を閉じた。

「……と思ったけど、今のあなたにそれはあまりに酷ですね。わかりました、教えましょう。でも、そうですね、これは貸しです。もし湖で何かあったら真っ先に私に教えてくださいね」
「はい、ありがとうございます」

 チルノちゃんの居所がわかるのなら、なんでもいい。

 わたしのすがるような目つきを逸らすように、文さんは体の向きを変えた。そしてそのまま、湖の向こうの方向を指差した。

「チルノさんは、四日前の早朝、あの建物に入って行ったみたいですよ」

 そこには、緑の中に赤く映える、しかし不思議と周囲に調和した吸血鬼の巨大な館があった。




 7.

 ずっとそばに住んでいたけど、いざ紅魔館に来るのはこれが初めてだった。
 吸血鬼の館という場所は、たかが一介の妖精がそうおいそれと訪れることができるようなところじゃない。だから完全に盲点だった。
 こんなところにチルノちゃんは何をしに来たのだろう。
 間近で見た紅魔館は、その異様な色彩と独特の迫力があいまって、異界そのものだった。

 門のところであまりの紅さに圧倒されていると、奥から門番さんが駆けつけてきた。

「はい、侵入者は入れないよ……って、なんか、押し入る気はなさそうだね。
 一応訊いておくけど、お嬢様のお客さん?」
「いえ、違います」
「ああ良かった。また咲夜さんにどやされなくて済むわ」

 以前何かやってしまったことがあるのかもしれない。
 それはともかく、わたしはいつまでもここでこうして呆けているわけにいかない。意を決して、拍子抜けといった風情の門番さんに声をかける。

「あの」
「ん?」
「今、こちらにチルノちゃんがお伺いしていないでしょうか……?」
「え、ああ、うん、来てる……いや、ごめん、来てない。来てないから。来てないよ!」

 あからさまに怪しい反応。
 門番さんには悪いけど、わかってしまった。チルノちゃんはここに来てるんだ。
 やっと、居場所を突き止めた。
 安心のあまり、その場にぺたん、と座り込んでしまった。チルノちゃんが、チルノちゃんがここにいる。今にも泣き出してしまいそうだった。

「ちょっ! だ、大丈夫? ごめん、ああ、どうしよ」
「どうしたんですか?」

 見ると、奥からさらにもう一人、こっちに近付いてくるのが見えた。パチュリーさんとの話にも出てきた、図書館の小悪魔さんだ。
 小悪魔さんはひどく心配そうな顔でわたしを見ながら、小走りで駆け寄ってくる。文さんの時もだったけど、今のわたしはそんなに危なっかしく見えるのだろうか。

「いや、こぁさん、ごめん。そういうことなんだけど……どうしよう?」
「わかりました。ここは私に任せてください」

 門番さんを後ろに下がらせて、小悪魔さんは腰が抜けたわたしに手を差し伸べる。

「こんにちは、大妖精さん。今日は一体……」
「お願いします。この通りですから、チルノちゃんに会わせてください」

 地面に手をついて頭を下げた。二人が息を飲む気配が伝わってくる。

「昨日からずっと考えて考えて考えて、どうしようもなくわかってしまったんです。
 わたし、チルノちゃんがいないとだめなんです。空っぽなんです。
 わたしにはすべきこともやりたいことも取り柄も力もなんにもなくて、チルノちゃんがいなくなってしまったら生きてる意味が全部なくなっちゃうんです。チルノちゃんがいるからなんとか自分を見失わなくて済んでたんです。
 だから、もしこのまま二度とチルノちゃんに会えなかったら――」

 わたしは、空っぽになる。
 何か他のものに変わるわけじゃない。無になる。なんにもなくなってしまうんだ。
 わたしには、チルノちゃんだけがすべてだったから。
 それを差し引かれてしまったら、ゼロになるのは当たり前のこと。
 ずっと感じていた不安の正体は、これだった。

「だからお願いします、チルノちゃんに一目でいいから会わせてください」

 少し、沈黙があった。
 ややあって、小悪魔さんがわたしの体を助け起こした。困ったような笑みを浮かべながら。

「とりあえず顔を上げてください。
 もうちょっとだったけど、仕方ないですね。わかりました。チルノちゃんのところにお連れします」




 8.

 紅魔館の長い廊下を、小悪魔さんの後ろについて歩く。目指すは大図書館の司書室。小悪魔さんの話によると、チルノちゃんはそこにいるらしい。

「今、パチュリー様もお嬢様も咲夜さんも出かけていて不在なんですよ。パチュリー様は新しい魔法を開発するとかで魔理沙さんのお宅の方へ。お嬢様は咲夜さんと一緒に、フランドール様がお出かけする練習に永遠亭の方へ。だから本当は、あまり勝手にお客様を招いちゃいけないんですけどね」

 気が逸るわたしを落ち着かせようと、小悪魔さんはいろいろ話しかけてくれる。
 でも、心遣いは嬉しいけれど、正直なところ、わたしにはそれを大人しく聞いているだけの心の余裕がない。
 頭の中は、この先にいるチルノちゃんのことでいっぱいだ。

 怪我は大丈夫なんだろうか。
 熱にやられて病気になったりしてないだろうか。
 さみしかったり、不安だったり、怖かったりしてないだろうか。

 …………。
 それより、あの子は、わたしのことを――

「お嬢様と咲夜さんはともかく、パチュリー様はぎりぎりのタイミングでした。チルノちゃんとちょうど入れ違いみたいな形になったので。過度な冷気は本を痛めるって、バレたら大目玉でしょうね。えへへ」
「あの、小悪魔さん」
「はい?」
「チルノちゃんは、ずっと小悪魔さんと一緒にいたんですか」
「そうです。私たちも何度か帰るように言ったんですが、どうしても帰らない、連絡もするな、の一点張りだったもので。
 あんな性格の子ですから、無理に屋敷から出したところで大人しく帰るとも思えなかったので、こちらで預からせていただきました。やっぱり内緒で連絡くらいはするべきだったと今は反省しています」
「……チルノちゃんは、わたしのことで、何か言ってなかったでしょうか」
「え?」
「その……わたしのことを、……嫌いになった、とか」


 あれから何度も思い浮かび、そのたびに打ち消し続けてきた答えだった。
 それだけはあまりに怖くて考えたくなかった。
 もしチルノちゃんが消えた理由が、わたしから逃げ出したいから、だったとしたら。
 それなら、わたしに何も言わずに消えたことも、いつまで経っても戻ってこないことも、すべて辻褄が合う。
 わたしのうるさい説教が鬱陶しかったのかもしれない。
 お姉さんぶっているのが気に入らなかったのかもしれない。
 わたしは、あれこれと要らない世話をすることで、チルノちゃんにべったり依存してきたから。
 その一方的な関係が重かったのかもしれない。

 もし、本当に嫌われていたのなら、わたしはチルノちゃんになんて言えばいいんだろう。


 小悪魔さんは驚いたような顔でわたしを見、何か言おうとして、迷った挙句、やめた。

「それは、ご自分でお確かめになってください。着きましたよ。ここです」

 巨大な図書館の隅にある、小さな扉。司書室のプレートがかかっている。
 前に立つだけで、扉の奥から冷気が漂ってきているのが感じられた。
 間違いない。
 チルノちゃんはここにいる。
 扉を開けようとして、手が震えていることに気がついた。寒さのせいではなく、違う何かのせいで。

 意を決して、扉を開けた。

 司書室の中は、扉を見た時に想像した通りの、ごく慎ましい大きさだった。図書館自体は巨大でも、司書室はそんなに大きくする必要がないのかもしれない。
 日の光が射さない暗がりの中、奥の机によく見覚えのある背中が座っていた。ろうそくの光のゆらめきに、透き通った羽根がにぶく光っている。間違いなく、必死に追い求めた後ろ姿だった。

「……チルノちゃん!」

 小さく叫んで駆け寄る。反応はない。
 勢いに任せて抱きしめようとして、チルノちゃんが小さな寝息を立てていることに気がついた。

「あー、本人が来ちゃったのね」

 声がしたので振り返ると、暗がりにもう一人、女の子がいることに気がついた。ろうそくの光は届いているけど、ちょうど入り口からの死角にいたので気付かなかったらしい。背中に綺麗な朱鷺色の羽が少しだけ見える。手には読み始めたばかりと思しき分厚い本があった。

 わたしに続いて、小悪魔さんが部屋に入ってくる。

「頭まで下げられてしまいましたから……もう、限界だったようなので」
「ま、結果オーライだったかな。ちょうど今完成したところだし」
「あら、間に合ったんですね。良かった……。
 それじゃ、大妖精さん。この手紙を読んでみてくださいね」

 小悪魔さんはチルノちゃんの寝ている机からひとつの封書を取ると、わたしに手渡した。
 宛名はない。
 中には、折り畳まれた大きな紙がひとつ。そこにはがたがたのいびつな字で、こんなことが書かれていた。




   大ちゃんへ



   いつも、あそんでくれてありがとう。

   いつも、いっしょにいてくれてありがとう。

   いつも、ちるののことをきにかけてくれてありがとう。

   大すきだよ。

                          
ちるの   .



「ずっと前から、いつもお世話になっている大妖精さんには、いつかお礼を言わなきゃいけないって思っていたそうです。それで、先日助けてもらったのをきっかけに、今こそ手紙を書こうと決意したんですって。でもチルノちゃんは字が書けなかったから、私のところでずっと文字を書く練習をしてて……」

「あのさ。確かにこの子、いろいろ心配かけたかもしれないけどね。でも、できればそんなに責めないでやってほしいな。ものすごく必死だったんだよ。この四日間、ただの一言も文句を言わずに、一生懸命、休みもせず、ずっと練習してたんだ。あたいなら三十分で超よゆー、とかいきまいておいて、結局こんなに時間がかかったのはアレだけどさ」

 あのチルノちゃんが……?

「それで、私達で少しだけお手伝いをさせていただきました。私一人じゃ仕事もあってずっとついてあげられないので、こちらの方にも手伝ってもらって」
「ここの常連なんだよね、あたし。ま、こぁちゃんにお願いされたら断れないし、この子も頑張ってたからね。ちょっとくらいならいいかなー、と思って。大したことじゃないから、全然気にしなくていいからね」

 そんなことはない。寒かったはずだ。見れば、ずいぶん厚着をしている。こんな狭い空間で延々と冷気を発し続けていたんだから、この部屋は真冬みたいに寒くなっていたはずだと思う。今は終わって外から暖気を取り入れたのか、かなり暖かくなっているけど。

「大妖精さん、おわかりですか? あなたは空っぽなんかじゃないんですよ」

 小悪魔さんの優しい声に、チルノちゃんの手紙を持つ手が震える。

「空っぽな人が、他の誰かに感謝なんかされるはずありませんから。確かに今まではチルノちゃんのことしか考えてこなかったかもしれないけど、その気になればあなたにもなんだってできるんですよ。そしてその時、今までのあなたが積み重ねてきたものが、きっと背中を支えてくれるはずです。今のこの手紙のようにね」

 チルノちゃんは疲れきった、けど幸せそうな顔で寝ている。その顔があまりに安らかだったので、見ているうちにだんだん腹が立ってきた。
 いきなり何日も姿を消して、わたしが心配しないとでも思ったんだろうか。
 感謝を伝えるために不安にさせるんじゃ、本末転倒なんじゃないだろうか。
 まったく、チルノちゃんらしいというか、なんというか……

「もう……! チルノちゃんったら!」

 今まで我慢してきたものが、一気にあふれ出てくる。
 つい堪えきれなくなって、チルノちゃんを抱き抱えるようにしながら、わたしは泣いた。




(了)



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