FPS 朝の光、夜の夢(Dreaming in the Daylight)
 


朝の光、夜の夢
Dreaming in the Daylight



1.

 どこかで小鳥が鳴いた。雀と思われるその声につられて振り返ると、窓の向こうの桜の木の枝に三羽、かたまっているのが見えた。こちらを向いていたり背中を向けていたり、互いにあまり関心はなさそうだ。
 朝が早いせいか軽い頭痛がしていた。こめかみをぐっと押すと、それに対応して痺れが倍増する。それとも寝ていないからだろうか?俺はあきらめ、どこかぼんやりとした意識をそのままに放置することに決めた。どのみち、それでも何の不都合もない。
 俺以外の他に誰もいない朝の教室は、しんと静まり返っている。黒板の隅に残った板書の消し忘れ、角がぼろぼろになった行事予定表、昨日の掃除当番がサボったせいできちんと纏められていないカーテン、そして俺の目の前の机の上に刻みつけられている言葉。土井たか子ん家のレオタード。くだらない。いつも見ているものだった。今はただ、そこから人の姿が欠けているだけだ。
 時計を見た。午前六時十六分。あと二時間もすればここも人で賑わい、いつものような喧騒が戻ってくるだろう。信じられないような思いでそれを想像して、俺は軽い眩暈を覚えた。
 とにかく、仕事は早くしなくてはならない。すぐに人がやってくるとなると尚更だ。
 だが、俺の意思に反して体の方が動かなかった。試しに右腕を上げようとしても、さっきまで自在に動いていたはずの筋肉はぴくりとも動こうとしない。左腕でもやってみたが、結果は同じだった。
 頭を振って、俺は身動きすることを諦めた。首から下が石になってしまったかのような感覚がする。あるいは荒縄で括り付けられているか。ひっとらえられた泥棒のようなものだが、まあ、それもいいだろう。今は焦るのだけは禁物だ。
 俺は唯一生きているらしい首を少し無理にひん曲げ、二つ右の列、三つ後ろにある古びた机を見た。不必要に背の高い花瓶に紫色の花をつけた木の枝が一本、そつなく活けられているのがぽんと乗っかっている。一本きりでも、花の数が多いので見栄えは悪くない。花の名前は――考えたが、もちろん判るわけがなかった。枝は場違いにそのしなやかな体を朝の光に晒している。あんなもので空白を補完できているつもりなのだろうか。俺ならたまったものではない。
 また雀が楽しそうに、ち、ちちと騒いだ。さらに耳を澄ますと、教室の掛け時計の秒針が時空を切り刻む音も聞こえてくる。さっきまでは意識していなかったせいで聞こえなかったのだ。そこにあるものは変わらないのに、気持ちの持ち方次第で世界は百八十度変わる。思えば人間とは不思議な生き物だ。
 また時計を見た。さっきから同じことを繰り返している気がしないでもないが、そんなことはどうでもいい。時間の進み方に影響のあろうはずもない。午前六時十八分二十一秒。まだ二分と少ししか経っていない。人間の永遠と地球の一生はどちらの方が長いのか、なんて不毛なことを考えつつ俺は教室の入り口に目を転じた。




2.

 いつの間にかドアが開いていて、見慣れた顔がじっと俺を見つめていた。俺と彼女はお互いに黙ったまま、それもおそらくそれぞれ別の理由で驚きながら見つめあった。雀の鳴き声は聞こえなかった。
「何してんの……朝木君?」
 俺のクラスメイト、星野は表情を動かさずに言った。ちょっと考えてから、俺は苦し紛れにその真似をしながら答えた。第三者から見たらマネキン同士が喋っているように見えるかもしれない。
「いつもこの時間には起きてるんだ。日課で一時間ほどぼーっとすることにしてる。で、さらにひと月にいっぺん、学校でぼーっとすることにしてる。俺は低血圧でね」
「だからこんな朝早くから学校に来てんの?」星野は笑った。 「嘘でしょ。遅刻王が言っても説得力のかけらもないって。おまけに意味不明」
「ばれたか」俺は頭を掻いた。 「実を言うと、知り合いに不幸があったんだ。それで、慌しくなったもんだから、そのせいでいつもより早く起きたんだと思う」
「それ、学校にいることの理由になってないよー」
 星野はくすくす笑いながら、自分の席の方へ俺を通り過ぎ、俺の視界から消えた。俺はその隙にそっと腕に力を入れてみた。電気信号は何の問題もなく神経細胞を伝わって、人間の先端はグー、チョキ、パーを実行した。そんなものだ。
 がたがたと音がして、見ると星野がどっこら、と呟きながら隣の席に腰を下ろしたところだった。彼女はせかせか机を動かして、俺の机の横にぴたりとくっつけた。
「何か用?」
 用がなければこんなことしないよな、と思いながら俺は言った。
「うん、ねえ、あのさ、ちょっと、聞きたいことがあるんだけど」星野は悪戯をする子供のような目で俺を見た。 「脇森君てさ、鈴木さんと付き合ってんの?」
「さあね」俺はそっけなく答えた。 「知らない」
「でも、朝木君、脇森君とよく喋るじゃん」
「それは同じ部活だから」
 俺と脇森はサッカー部に所属している。脇森はうらーというかけ声が特徴的なゴールキーパーだ。俺はいつもアホみたいだから止めろと言っているのだが、彼はすぐ、うるせーヘボフォワード、などと憎まれ口を叩いて、いっこうに俺の言うことを聞こうとしない。
「まあ、そりゃ、知ってるけどね」星野は頷いた。 「あんなにぺらぺら喋るのに、そういう話は出ないもんなのかな」
「男子ってのは、女子ほどそういう話をするわけじゃないしな。それに、あいつはアホだから、もし本当にそうだったとしても、そういうことは口に出さないんだよ」
「アホ?」星野は不思議そうな顔をした。 「普通逆じゃない?」
「ああいうのは言うのが遅れるほどあとで茶化される度合いが強くなるから」
「なるほど」星野は妙に神妙な顔で頷き、物思いに耽るように黒板の方を向いた。
 俺はそっと星野の横顔を見た。まだ小学生の少女のような幼さの残る、丸みを帯びた顔立ちだった。ポニーテールの付け根に青いゴムバンドを発見して、俺は自分が狂ってなどいないことを確認した。
 その星野が俺を振り返った。
「どしたの?」
「いや、どうしてあいつと鈴木なのかなって思って」 付け加えるような響きだったが、星野は気付かないようだった。
 星野は急に真剣な顔になり、思いっきり俺の耳に口を近づけた。突然だったので、俺の心臓は数メートル跳ね上がった。
「どうしてもこうしても、こないだ、見ちゃったんだよね。二人で、川の向こうにあるラブホテルに入っていくとこ」
 跳ね上がった反動で揺れていた心臓が、今度はぴたりと止まった。
「嘘だろ」
「嘘だよ」
 星野の顔がくしゃっと崩れた。 「本気にした?本気にした?」
「……なんだ、そりゃ」 冷静を装ってみたが、しかし内心の動揺はばれているに違いない。星野のにやにやした顔を見れば一目瞭然だ。
「いやいや、反応が見たかったんだよね。ほら、朝木君、いっつも動じないからさあ、動揺とかするかなって」
「しました。十分しましたよ。死にそうでしたとも。驚きのあまりさ」 適当に答えて誤魔化す。普段は絶対使わないような口調だったが仕方がない。 「だってあのうらー野郎だぜ?誘う時もあの奇声を上げるのか?うらぁー」
「どうでもいいけどさ、そろそろアホとかうらーじゃなくて名前で呼んであげようよ」ぷっと吹き出して、星野は言う。 「ほんとはね、校舎裏でキスしてるとこ見ちゃったんだ」
「そりゃ決定的だな」
「そうかあ。うんうん、やっぱりそうか」
 感心したような顔で星野は頷いた。まるで初雪の降り始めを見ることができたかのような、なんとも幸せそうな顔だった。困惑していると、星野はちょっと、ね、などと言い残し、席を立ち、開いたままになっていたドアから教室を出て行った。トイレだろうか?俺はがらがら音をたててドアが閉まるのを見届けたあと、机に伏し、二、三度、深呼吸をした。狐につままれたような気分だった。人類で初めて夢を見た人間が目を覚ました時も、案外こんな気持ちがしたのかもしれない。




3.

 とにかく、これからどうするべきなのかが重要だった。目を閉じ、息を止めると、星野と会話していた時には聞こえてこなかった音が戻ってきた。時計の音。雀の声。沈黙が奏でる、きいんという途切れることない耳鳴り。誰の足音も聞こえない。女子トイレはどこにあっただろう?そして俺の心臓の音。どくんどくんと体の内に響き、これが平常だったのか、それとも緊張しているのかすらわからない。星野の心臓の音はどうだったろう。彼女の心臓も、俺のように波打っていたのだろうか。それとも、それは俺の願望だろうか?
 目を開けた。沈黙は教室を結晶のような空気で満たしていた。振り返ると、二重になった窓から薄い光が花瓶の枝の花を優しく照らしていた。その影は机を越えて床に落ち、妙に白いタイルの切れ目の線が二本、黒い花に飲み込まれていた。
 まるで、最初から誰もこの部屋にはいなかったかのようだった。今のここには人間の体温が決定的に欠けていた。中身のない空虚なシステムとはこういうものを言うのだろう。俺は急にマリー・セレスト号の逸話を連想した。大西洋上を誰も乗せずに航海し続けていた船。その船内には作りかけの朝食と、飲みかけのコーヒーの入ったカップが残っていたという。
 嵐のように、耳鳴りが止まらない。
 俺は戦慄し、何かにすがるように、再び、ぐるりと教室中を見回した。斜めの光に染められた壁。黒板に残った「と」という文字。球技大会で準優勝した時の賞状。掲示板の古びたプリント。色分けされた行事予定表。傷だらけのドア。大半の名札を失くしたロッカーが後ろに並ぶ。端のひとつは完全に壊れて、中からバスケットボールとバドミントンのラケットが覗いている。窓枠にうっすらと積もった埃。窓の向こうの桜は盛りの時期をじっと待っている。雀は……一、二、三、変わらない。教室内に視線を戻す。しばらく使っていないテレビ。ストーブのそばのバケツ、そこにかけられた雑巾。教卓には引っかき傷がある。午前六時十九分五十秒、正面の時計はまだ音をたてて俺を見下していた。たまらず後ろを向く。花瓶の枝とその影。俺の古い鞄。そして、ただ整然と並ぶ、四十二個の机、机、机……。
 その瞬間、俺はとてつもなく悲しい気分になった。「それ」に気づいてしまったのだ。子供の頃、飼っていた子犬が死んだ時、小学生の頃に親友が転校した時、ずっと大切にしていた時計を壊した時、中学生の頃に海で溺れかけて死にぞこなった時、いろいろ悲しい出来事はあったが、今回のとは比較にすらならなかった。「それ」は、それほど衝撃的で、なおかつ、象徴的だった。
 時計の秒針は午前六時二十分五秒を回るところだった。

 なぜ、あれから、二分も経っていない?

 答えは明白だった。
 つまり――ああ――これは――……


 ――夢だったのだ。




4.

「やっほ」
 突然肩を叩かれ、俺は勢いよく飛びのいた。がたんと大きな音をたて、椅子が倒れた。星野はそんな俺を見て目を細めた。
「なんでいちいち挙動不審かな、朝木君は」
「挙動不審はどっちだよ」
 俺はため息をつき、椅子を立て直した。座りながら、俺は考えていた。俺はどうするべきだろう。星野に何を話すべきだろう。
「ねえ、朝木君」
 星野は俺の隣に座り、頬杖をついた。俺は何、と言った。
「さっきからさ、いつにも増して元気がないけど、どうしたの?」
「いつにも増して、って何だよ」
「だって朝木君ってもともとあまり元気なキャラじゃないし。躁鬱で言うと、鬱」
「躁に言われたくない」
「ひっどーい。あたしだってねえ、悲しいことの一つや二つ……」
 星野はごにょごにょと口を動かして誤魔化した。きっといい例が思い浮かばなかったのだ。
「……いいから、あたしに何でも相談してごらんなさい。何よ?」
「何でもねえよ」言えるわけがない。
「あっそ。じゃあもう訊かない」
「そうしてくれるとありがたい」
 俺たちはカメラに向かう芸能人のように二人で同じ方向を向きながら、黙ってそれぞれの思惑に耽った。やっぱり、時計の音は聞こえなかった。
 朝の光の中で、微かな祈りが揺れていた。この教室の中の時間だけが止まっているようだった、いや、止まっていた。俺は自分が見捨てられた教会のステンドグラスになったような気がした。
 しかし、それは決して悪くない気分だった。


「静かだね」 埃をかぶった聖母の像が、優しく微笑む。
「そうだな」 祭壇に投げかけられた色とりどりの光線のように、俺は応える。
「誰も来ないね」
「今は、誰も来ないさ」
「どうして?」
「夜の夢には、余計な登場人物は出てこないだろ?」


 星野は少し黙った後、ゆっくり頷いて、そうだね、と言った。月から落ちた最後のひとしずくのような声だった。俺は急に、彼女のことが愛しくて涙が出そうになった。
 それから俺たちはいろんなことを話した。脇森のことも話題に出たし、サッカー部で今何が流行っているのかとか、星野の家族構成についても話し合った。星野の小学生の弟は、トイレに入る時なぜか、ドアを全開にするらしい。
「わかる気もするな」
「信じられない。よりにもよってクールで硬派なあの朝木君があれを理解できるって?」
「馬鹿にしてんだろ。俺はいったい何者なんだよ?」
 星野は笑って、教えない、と言った。とにかく彼女は信じられないくらいよく笑った。俺の冗談に笑い、自分の冗談にも笑った。何も言わないでいても笑った。俺もつられて、中学校時代分全部と同じくらいは笑ったかもしれない。兎にも角にも、彼女にするなら、こういう女の子に限るものだ。
 そんな話をしながら、俺の中にあった教会のイメージは、だんだんと宝石箱のイメージに移り変わっていった。俺と星野はこの箱の中に並んで納まっていた。蓋をして鍵さえかけておけば、何十年か経った後でも、寝る前のちょっとした時間なんかに、グラス片手に眺めることができそうなほどだった。
「朝木君、こんなところで何してたの?」星野が、子供をあやすような声で言った。
「さて、何でしょう」俺は両手を広げる。 「当ててみよう」
「爆弾でも置きに来たの?」
「何故いきなりそうなるんだ」つい、吹き出してしまった。 「アホか。どういう思考回路してんだよ」
 しかし、そのおかげで、俺の中で何かが吹っ切れた。もう、誤魔化す必要も何もない。俺は少し考え、飾らずに言うことにした。
「いろいろ、どうでもよくなったんだ」俺は心の中を探して、使えそうな言葉を拾っていった。 「この歳で世の中に絶望したとか、そういうことは言わないよ。けど、ちょっと、道に迷うってことが、あるだろう。この歳だとさ」
「あったかもしれない」星野は俺をじっと見つめた。 「わかる気がする」
「ありがとう」俺は星野を見つめ返した。が、すぐに視線を手元に落とした。恥かしい気がして、長いこと見ていられなかった。 「それで俺は、今、自分が何をしたいか考えてみた。残念ながら、すぐには実現不可能なことばかりだった。かといって、そこまで歩いていけるような気もしなかった」
「それで、今日、ここにいたんだ」星野はすべて、諒解したようだった。それでも、俺は最後まで、言わなければならない。
「ああ……。やるんなら、ここしかないような気がしたんだ」
 俺は鞄の中から、登山ナイフを取り出し、机にできるだけそっと置いた。それでも手を離した瞬間、ごとりと重々しい音がした。
「うっわー……高そう。いくらしたの?」
「八千円。怪しまれないためのキャンプ用具一式も含めれば、三万円」俺は昨日の買い物を思い出した。俺が行った駅前のスポーツ用品店には、いるかのエプロンをつけた茶髪の店員が一人いるだけだった。俺は適当な嘘をでっち上げ、とにかくすぐに山に登らなくちゃならないんだ、と言った。よほど俺は暗い目をしていたのか、彼はいくらか俺を怪しんでいたようだったが、それでもそんなに渋ることもなく一番安いセットを俺に売ってくれた。結局、商売っ気が勝ったのだろう。
「けど、もう、いらないから、好きに処分してくれ」
「飛び降りることにしたの?」
「違うっちゅうの」俺は思わず笑った。最高に面白かった。 「なんか、気が晴れたんだよ。だからもういいんだ。大体、ここまで話しておいて、死ねるかよ」
「とはいえ」星野も笑いながら、俺の机に手を伸ばし、ナイフを手に取った。上に下に、いろいろな角度から眺め回す。 「こんなもん貰ってもしょうがないからなぁ。重いし」
「無理にとは言わねえよ。なんたって、八千円もしたんだから」
「そうだね……。よし、どうせだから、今日からキャンプを趣味にしなさい」
 星野は俺の手にナイフを戻した。その瞬間、少しだけ、星野の手が俺の手に触れた。想像よりずっと暖かく、柔かく、俺は正直、感動した。魂が震えるほど感動した。
 この時の感動を、俺は一生、忘れないだろう。
「さて」星野はおもむろに立ち上がった。 「実はね、ちょっと、用事があるんだ」
「待ってくれ」俺も後を追うように立ち上がった。こんなに唐突だと思わなかったのだ。
「行かないわけには――」言いかけて、諦めた。 「いかないんだろうな」
 夢はいつか覚めるものだ。それがわからないほど、俺は子供じゃない。
「ちょっとだったけど、楽しかったよ」星野は寄せた机を戻しながら、窓の方を向いて表情を隠した。 「全部わかってて、付き合ってくれたんだよね」
 俺は返答に窮した。それを言った途端に、もう戻らないものがまたひとつ、増えてしまう気がしたからだ。
「あ、いいんだよ、無理に言わなくて」星野はあさっての方向を向いたまま、明るい声で言う。「あたしはわかってるから。朝木君の言いたかったこと、ちゃんとわかってるからね」
「こっち向けよ、星野」俺は言った。 「どうしたんだよ。別に泣くようなことじゃないだろ?」
「泣いてなんかないってば」星野は顔を上げた。満面の笑顔だった。ちらりと目尻が光った気がしたが、それは決して、涙ではないだろう。 「泣くわけないって。ちょっと外に行くだけなんだから。何言ってんの?」
「そうだな。悪かった」俺は素直に謝った。 「俺、何か勘違いしてたみたいだ」
「まったくねえ」星野は人差し指を立て、首をぷるぷると振った。そんな仕草に俺は惹かれたのだ。 「そんなんだから朝木君、彼女のひとりもできないんだよ。黙ってれば、けっこうかっこいいのにさ」
「……ごめん」
「突然素に戻んないで。大体あたしに謝ってもしょうがないでしょ」
 俺たちはまた笑った。その裏で、俺は同時にほっとした。これで最後まで笑っていることができる。
「ま、いっか。じゃ、そろそろ行くけど、ありがとうね」星野は手を振って、ドアに向かって歩いてゆく。
「ああ、感謝してるよ。ありがとう」俺は机に残ったまま、片手を挙げて応じた。
「じゃね」
「じゃあ」
 来た時と同様、鞄のひとつも持たずに、星野はドアの向こうに消えた。


 時計の音と雀の鳴き声が、ゆっくり、重なり合っていた。それで俺は、俺と星野を残して進んでいた時の流れが、この部屋に戻ってきてしまったことを知った。
 夢はもう終わったのだ。そのことを理解するのに、一分近くかかった。
 俺の他に誰もいない朝の教室は、ぬるま湯のような光に満ち溢れていた。黒板の隅に残った板書の消し忘れ。角がぼろぼろになった行事予定表。昨日の掃除当番がサボったせいできちんと纏められていないカーテン。そして俺は目の前の机の上に刻みつけられている冗談を吟味して、苦笑した。いつも見ているものだった。今はしかし、それらのすべてが、愛しく思えて仕方がなかった。
 ナイフを鞄にしまいながら、時計を見た。午前六時二十二分三十秒。あと二時間もすればここも人で賑わい、いつものような喧騒が戻ってくるだろう。
 俺は再び、ゆっくりと机に沈んでゆく。光も、音も、すべて遮断して。
 人類で初めて夢を見た人間は、目が覚めた時、自分の気が狂ったと思っただろうか?
 いや、おそらく、思わなかったに違いない。




5.

 肩を叩かれ、目を覚ました。
 目を開けると、俺の顔を心配そうに鈴木が覗き込んでいた。星野との会話に出てきた脇森の彼女だ。学校の隣に住んでいるから、いつも来るのが早いと話に聞いていたが、こんな風に会うとは思わなかった。彼女の方はというと、よほど心配だったのか、俺が息を吹き返すのを見て、明らかに安堵した。
「どうしたの?朝木君、こんなところで……」
「寝てた」
 俺は重い流動体のような意識をもてあましながら、やっとのことでそれだけ返した。いつの間にか眠っていたらしい。徹夜明けなのだから当然だ。無理な体勢で寝ていたせいで、肩と、肘と、あごと、首と、腰が痛かった。腕には髪の毛が押し潰された痕がついていた。
 首を上げ、時計を見る。もうすぐ八時になるところだった。どこか遠くの教室から、吹奏楽部の朝練習の音が聞こえていた。いつもの日常の、当たり前すぎる入り口だった。
「ていうか、珍しくない?遅刻王がこんな早く学校に来んの」
 鈴木はずいぶんと失礼なことを言いながら、俺の隣――星野が座っていた席に座った。その席の本来の主は、彼女なのだ。
「駄目か?」
「駄目ってわけじゃないけどぉ……」鈴木はちょっと躊躇したが、続けて言った。 「わっきーが心配してたよ。あいつ最近、死んだ魚のような目をしてるって」
 脇森だ。あの野郎、大きなお世話だ。
「気にすんなって言っといてくれ」
「てかさ、あたしも気になってたんだよね。あれからずっとそうじゃん?ひょっとして朝木君、ユミコとなんかあったの?」
 ユミコ――夢見子、星野夢見子。星野のことだ。
 が、残念ながら鈴木の想像するようなことは俺たちの間には一切なかった。俺たちはただのクラスメイトだったし、結局今もその域を越えているとは思えなかった。俺はその旨を鈴木にわかりやすく説明した。彼女はどうも信じられなさそうな顔をしていたが、話し終わると、ふうん、そっか、と言った。
 そこで俺はふと、星野がなぜあんな時間にあんな場所に来たのか考えた。しかし、どう考えても自分に都合のいい解釈しか出てこなさそうだったので止めた。恐らく自分があそこに行った理由と混同してしまうのだろう。
 ひとつ、小さな疑問がわいた。確か、鈴木が用意したはずだと思い、訊いてみることにした。
「なあ鈴木」
「何」
「普通、死人には花束を捧げないか?なんで、木の枝なんだ?」
 突然言われて何のことかわからなかったのだろう、ちょっと間があったが、すぐに鈴木は少し淋しそうに笑って俺を見た。成人し巣立ってゆく子供の自慢話をする母親のような顔だった。それから、おもむろに、二つ右の列、三つ後ろにある古びた机に視線を移した。星野の代わりに、背の高い花瓶に三十センチあまりの木の枝が活けられていて、淡い光が枝に散らばる花びらを濡らしていた。
「あれ、アメリカデイゴっていうんだよね。花言葉知ってる?」
「知ってるわけないだろ」しかし、なんとなく予測はついた。
「夢」鈴木は言う。 「どう? ユミコにぴったりじゃん」
「ああ」俺は頷く。 「最高」


 それから鈴木は、俺が星野のことに興味を示したのを根拠に質問攻めを再開した。やっぱなんかあったんでしょ。実は付き合ってたんじゃないの?しかし少なくとも校舎裏でキスしたことはないと答えると、彼女は急にしどろもどろになって、そのうち教室から逃げ出してしまった。どうやら本当にやったらしい。予想以上の効果に驚いていると、そのうち廊下からぼそぼそと携帯で脇森を責める声が聞こえてきた。友達だからってあんたはなんでもぺらぺら喋るわけ? あれは内緒って約束したじゃん。――嘘つかないでよ、あたし達以外に誰もいなかったでしょ!
 しかしだんだん声が大きくなっていったことに自分で気づいたのだろう、まもなく声は遠ざかっていった。さもなくば俺が一声かけてやろうかとも思ったのだが、手間が省けたというものだ。
 あの二人は、きっとあんな感じで、これからもやっていくのだろう。
 俺はまたひとりになり、また誰か来やしないものか、と期待した。しかし、それにはいかにも、吹奏楽器達の合唱は余計だった。星野への手向けのアメリカデイゴが、微かな埃の中で笑っているような気がした。
 俺は頬杖をついて、夢の中で星野が言ったことを、一言一句残らず思い返してみた。宝石箱の中の言葉は既にさらさらと崩れて砂のようになっていたが、それでもまだ、輝きだけは失われていなかった。
 それで十分だった。
 俺は立ち上がり、窓枠に手をついて、天を仰いだ。が、すぐに物足りなくなって、窓を開けた。冷たい空気が俺に触れ、生温い体温を奪っていく。胸一杯に広がる、春の匂い。早春の風がゆるりと流れて、桜の梢で、鈍い光が、ちらちら、揺らいでいた。
 ふいに、どこかで、小鳥が鳴いた。雀と思われるその声につられて姿を探すと、枝の向こうの遥か高く、真っ直ぐな朝の光に導かれるように、三つの黒い点が、舞い上がってゆくのが見えた。俺はじっと空を見上げ、夢があれほど忘却しやすいのは何故だろう、と考えた。
 覚えるほどの価値のないものだから?
 忘れた方が幸せに生きられるから?
 いや。
 それは、夢よりもっと、現実が楽しいからだ。
 ならば、せめて忘れてやらないことだけが、夢への恩返しになるのかもしれない。


 小さな足音の後、がらりとドアが開く音がした。また誰か来たのだ。続く反応が何もないのは、おそらく遅刻王がこんな時間に来ていることが信じられないからだろう。
 俺は一人で苦笑する。まったく……、そんなに俺がここにいるのがおかしいのか?
 小鳥はもう見えなくなってしまった。次に来たのは誰だろうと思いながら、俺は扉を振り返った。




(了)



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