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僕は愛車とデートする
Driving with You



 たったコップ一杯分程度の分量に、百万円もした。
 そんな高い高い溶液を、バケツ一杯のガソリンに混ぜてゆく。一遍に全部入れるのは躊躇われて、最初は半分だけ注いだ。スライムのような半透明の緑色をした溶液は、ガソリンの鮮やかなオレンジに紛れてすぐに見えなくなった。見た目は溶かす以前と何も変わらない。もどかしくなったので、残りも全部入れてしまった。やっぱり色に大した変化はない。
 そのバケツを抱えて、一滴たりともこぼさぬよう、車のガソリン口の横に慎重に置く。五年前に中古で購入した小さめの普通乗用車だ。メーターはそれほど回っていなかったから、まだそんなに古い車ではなかったはずなのだが、格安で売られていたのできっと事故車か何かだったのだろう。事実、ほんの些細な程度ではあったが、買った当初からステアリングの回転に僅かな引っ掛かりを感じる時があった。
 少し曲がったガソリン口を力づくで開けて、中にポンプで溶剤入りのガソリンを流し込んだ。
 バケツ一杯程度のガソリンでは満タンにならないので、足りない分はさらに持ってきて追加投入する。
溶剤は全て最初の一杯に溶かしてしまったので、残りはただのガソリンだ。気休めにさっきのバケツを一度通してから同じように汲み入れてゆく。溶剤を一適も残さず全て車の中に入れてやりたかった。
 良い塩梅になったので、ガソリンを入れるのをやめて蓋を閉める。後は待つだけだ。
 十五秒後、それは始まった。
 突然、車が少しずつ揺れ始めた。地震が起きてそれに釣られているというよりは、中で子供が何人も全力で暴れているような揺れ方だ。どんどん大きくなる振動をタイヤのサスペンションが軋みながら支える。少しずつ、だが確実に、べこべこと車体のあちこちがへこみ、少しずつ縮み始める。
 見る間に形を変えてゆく僕の車。もう一見しただけではそれが何なのかわからない。そして、変化に光が混ざる。みるみる白い輝きが車体を覆ってゆき、まだ陽も射さない早朝のガレージの中に強烈な光が満ちた。もう眩しくて目を開けていられない。僕は腕を被せて目を隠し、ひたすらに変形音に耳を澄ませる。見えないが、僕の目の前で確実にその変化は起きている。
 やがて五分ほど経った頃だろうか、音が止んだ。
 僕は恐る恐る目を開けた。
 そこには、裸のまだ若い女の子がぽつねんと座り込んでいた。
 何が起きたのかわかっていない様子だ。自分がそこにいることすらまだわかっていないのかもしれない。裸体を隠そうともせずに彼女はきょとんとした顔で僕を見つめている。不意にその口から小さな言葉が漏れた。
「オーナー……?」
 僕は用意してあった毛布を彼女にかけ、なるべく驚かせないようにそっと声をかけた。
「あー、そうだな。
 ……おはよう、はるこ」
 おはよう、はるこ。
 僕の愛車。



 着替えは旅行に行っている妹の物を拝借した。
 少し大きかったが、なんとか不自然ではない程度に誤魔化せた。すっかり着替えの済んだ彼女を部屋に通し、とりあえずベッドに座らせた。
 あれからはるこはまだ何も話さない。
 ただひたすら、初めて見る光景に目を白黒させている。今まで車だった彼女が家の中に上がりこむのは、これが初めてなのだ。
 僕はそんな彼女をじっと眺めている。
 女だろうという予感はしていたが、まさかこんなに若いとは思わなかった。たぶん三十か四十くらいだろうと思っていたのだが、これでは僕とほとんど同年代かもしれない。それに、何より、想像していたよりも彼女はずっと綺麗だった。
 そのことが無性に嬉しかった。
 こうやってずっと眺めていたかったが、生憎そうしている時間はない。僕はまだ居心地悪そうにしている彼女に話しかけた。
「えっと、はるこ」
 びくり、と見てわかるくらいに彼女が震えた。
「はっ、はい」
「身体は大丈夫? どこか痛むとこはないか? 気分が悪かったらちゃんと言ってくれよ」
「あ、私は大丈夫です、はい」
 よし。胸を撫で下ろす。用法を間違えると相手にかなりの負担を強いることになると聞いていたので、成功してくれて本当に良かった。
「あのう」
 はるこが口を開く。まさに恐る恐るといったところだ。目にはまだ困惑の色が浮かんでいる。
「私は……どうしてしまったんですか」
 自分の身体を指差しながら、
「だって、これじゃ私、まるで人間みたいじゃないですか」
 さっきまで車だったのだ、戸惑うのも無理はないだろう。
 僕は机の上に置いてあったガラス瓶を取ってラベルを彼女に向ける。
「字は読める?」
「え? え、ええ読めます」
「まぁ読めなくてもいいか。こういう溶液を使ったんだよ。物を人間にする溶液」
 入手経路やそこに至るまでの苦労は語ると長くなるので話せないが、こういうものの存在を知り、僕は無我夢中でそれを手に入れようと躍起になった。そして、並々ならぬ苦労の結果、コップ一杯分だけだがなんとか手に入れることができたのだ。それを車――僕がはること名付けずっと乗り回していた愛車――に使った、というわけだ。
 そのあたりの事情を、面倒な部分は適度に伏せながらはるこに噛み砕いて説明する。聞いている間中、はるこはずっとぽかんと口を開けていた。信じられない――のではないだろう、現に変身しているのだから。ただ単にそういう話の聞き方をする娘なんだろう。
 僕がはるこに乗りながら、「もし彼女が人間だったら」とずっと思い描いていた通りだった。
 説明をひと通り聞いて、はるこは自分の手をじっと見つめた。
「じゃあ私は、その溶液のおかげで、こうやってオーナーと同じ身体になったんですね」
「男と女だから厳密には違うけれど、まぁそういうことだな」
「はぁ……」
 掌を広げたり閉じたり。慣れない身体の感触を掴もうとしているのだろう。冬山から救出された遭難者が、凍傷になった指がきちんと動くか確かめているようにも見えた。
 はるこが顔を上げた。
「でも困ったかもしれません」
「え?」
「だって、これじゃオーナー乗せて走れないじゃないですか」
 なんというか、少しズレている。僕は苦笑して言ってやった。
「そのつもりなら最初から人間にしようとなんかしないって」
「……それもそうですよね」
「今日はふたりでデートでもしようかと思って」
「デートですか、それは良いですねえ。相手はどなたなんですか?」
「おまえだよ、おまえ」
 間。
「うっええええ? 私? 私ですか? 車ですよ私?」
「おう。車のおまえ」
「いえ……どうして?」
「あー。その、なんだ、」
 少し考える。言葉を探す。
「今までずっとお世話になってきたし、たまにはこういうのもいいかと思ったんだよ。それにこき使ってきてばっかだったからたまには羽を伸ばしてだな。たまには人間っぽい休日もいいじゃねえか。めったにないチャンスなんだし。それにこれが――いや、ああ、だからな、」
 はるこは無表情でじっと僕を見つめている。照れくさくなってつい語気を荒めてしまう。
「……あー、なんだよ、おまえ、僕と出掛けるのは嫌なのか?」
 するとはるこはぶんぶんと首を振り、満面の笑顔で宣言した。
「いいえ。全然そんなことはないですよっ」



 行き先は無難に遊園地になった。
 目的地も決まってさて行くかとなったところで、いきなりはるこが化粧をしたいと言い出した。
「おまえ、化粧なんてしたことないだろ」
「でもしてる人はいつも見てますから」
 車だろうが何だろうが女というものは侮れない。はるこは鼻歌混じりのわずかな時間で、とてもこれが初めてとは思えないような見事な変身をしてしまった。彼女の素朴な魅力が最大限に引き出されるような絶妙な匙加減に、僕は思わず胸をときめかせる。車相手に。
「やっぱり少し変ですか?」
「いや、全然そんなことはない」
「よかった」
 つん。彼女が笑うのと同時に、強い香水の匂いがした。化粧自体は控え目なのに、香水の分量は間違えてしまったようだ。初めてなのだから、やっぱり失敗してしまったらしい。
 だが、そのことには触れないことにした。こんな些細な失敗くらい、大目に見てあげよう。
「じゃあ、行くか」
「はーい」
 無邪気に顔を綻ばせるはるこ。畜生、普通に可愛い女の子だ。
 交通手段はバスと電車になった。最初はタクシーを使って駅まで行こうと思っていたのだが、はるこがバスで行きたいと言ってきかなかったのだ。普通乗用車のはるこが大型車のバスに特別な関心を抱いていたとしても、まあ不思議なことではあるまい。
「私、前々からずっと気になっていたんですよね。あの微妙に高い位置の窓から道路を見たらどんな風に見えるんだろうって」
「目線が高くても低くても、道路は道路だけどな」
「そんなこと言わないでくださいっ」
 程なくやってきたバスにふたりで乗り込む。片手を繋いで、まるで本物の恋人同士のようだ。どうにも気恥ずかしい。幸いにも数えるほどしか乗客がいなくて安心する。
 バスに乗り込んだはるこは、僕の手を握ったまま、ずっと窓から外の風景を眺めていた。
 彼女にとってはよく見知った風景のはずだったが、普段とはまるで違う角度や状況から見るとまた新鮮なのだろう。僕にとってはどっちも見慣れた風景だったが、そんなことをわざわざ繰り返すまでもないと思って何も言わないでおく。はるこは駅に着くまで一言も発せずに、ずっと黙ってバスの外を流れる町並みを見つめていた。
 駅でもはるこは物珍しさにせわしなく首をきょろきょろさせた。おのぼりさんみたいだからやめろと言うと、いいじゃないですかこんな機会滅多にないんですしと反論しづらい理屈を返してくる。彼女にとってはこの建物もいつも外から見るだけのものだったから、その内部についてはやっぱり興味があったらしい。僕が自販機でジュースを買っている間も、彼女はベンチでひとり、ずっと構内の設備とそこを通り過ぎる人々を皿のような目で見つめ続けていた。
 そしてふたり分の切符を買い、遊園地行きの快速列車に乗り込む。電車が動き始めた途端、バスと同じように今回も窓に張りついていた彼女は歓声を上げた。
「すごい、すごいっ」
「そんなにすごいか?」
「すごいですよっ」
 やっぱり片手は繋いだまま。
 電車が速度を増すにつれて、彼女のテンションもエスカレートしていく。車では出せないほどにスピードが乗り始めるとまるで子供のように騒ぎ始めたので、流石に軽く頭をこづいて大人しくさせた。
「痛いです」
「こうでもしないと黙らないだろ、おまえ」
「…………まあ」
 それからのはるこは打って変わって無言になって、車窓の外を過ぎ去るビルの群れを無心に眺め始めた。むっとしているような、少し淋しそうな、不思議な表情だった。やがて外の景色を見るのにも飽きたのだろう、前に向き直ってぽつりと呟いた。
「自分以外の動力で動くのって不思議な感じです」
「そういやおまえはいつも自力で動いてるもんな」
「ええ、まあ、そうじゃない時も何回かありましたけど……
 でもなんというか、あれですね、とても楽しいです」
 楽しい……?
 とてもそんな表情には見えないが。
 そのことに彼女も気付いたのか、はっと驚いたように表情を強張らせると、途端にあの無邪気な笑みに戻った。
「というか、せっかくふたりでデートしてるのに、外ばっかり見てたらオーナーに失礼ですもんね」
「いや、それは気にすんな。おまえの気が済むようにしてればいいよ」
「じゃあオーナー見てます」
 じっ。エサを待つ犬か何かのように真正面から僕の顔を眺め始める。見る。見る。穴が開きそうな程に見つめてくる。
 相手は車だが女の子だ。凄く照れる。
「やっぱりおまえ外見てろ」
「えー、なんでですかー」



「はあ、これが噂に聞く遊園地……」
「誰がそんな噂してんだよ」
 遊園地に到着した頃には、電車の中の淋しげな表情はどこへやら、はるこは瞳をきらきらさせていた。 待ちきれない、といったオーラが全身から迸っている。
「オーナーのご友人の方とか、妹さんとか、オーナーもしてたことがありますよ。遊園地の噂」
「そうか? それっていつの話だよ」
「三、四年くらい前です」
 さらっと言ってのける。そんな前のことをよく覚えているものだ。
 と、腕を捕まれ、強引にぐいぐいと引っ張られた。散歩に出た犬かおまえは。
「それはいいからすぐ行きましょうっ」
「落ち着け落ち着けってこら」
 はるこにずるずる引きずられるように入場する。パンフレットの地図を広げ、どこに行きたいかと尋ねるとはるこは勢いよくその中の一点を指差した。
「ここですっ」
「お化け屋敷か」
「デートならまずここですよね」
 ……そうなのか?
「というわけで、早速行きますよっ」
 幸いにもお化け屋敷は空いていた。大した待ち時間もなく、すぐに入場する。暗がりに入ると同時に、はるこが僕の二の腕に強く抱きついてきた。距離が近くなって、彼女の匂いが一層強く感じられる。
「おいおい、まだ入ったばっかだぞ」
「お化け屋敷の中では、女の子は抱きつくものなんですっ」
 相変わらずよくわからない理屈を振りかざしてすごい力でしがみついてくるので、諦めて歩き始める。薄暗がりの中にぼんやりと順路が見える。ふと右手を見ると、障子の隙間からいきなり骸骨の頭が飛び出してきた。
「うおっ」
「あっ、オーナーかわいい」
 ほっとけよ!
 今のはいきなりのことにちょっとびっくりしただけで、別に怖かったわけじゃないんだよそこは勘違いするなよ頼むから――そんなことを言おうと思ってはるこの顔を見るが、あれだけ入りたいとか言っていた割に、こいつは全く平気そうな顔をしていた。むしろ宝くじが当たった時のように全力でにこにこしている。完全に舞い上がっている。
 思い出す。そういえばこいつは毎晩あの暗いガレージで夜を過ごしてきたのだ。今更この程度が怖いはずがない。こいつは単に堂々と僕にくっつきたかっただけなのだ。
 角を曲がるとまた骸骨。
「きゃあああっ」
 よく聞かなくても、これは悲鳴じゃなくて嬌声だ。声から表情から反応から、心底までこの空間を楽しんでいるのがよく伝わってくる。
「なあ、おまえ怖くないだろ」
「そんなことないです、怖いですよっ」
 ほらそんなこと言ってるうちに思いっきりドラキュラの襲来を見逃してるぞあれはカラスじゃなくて蝙蝠だっつのホレ次はあっちだって痛い痛い腕がちぎれる少し力を緩めてくれおい話聞いてるのかうおわっごがっぎゃあああああ。
 疲れた。
 お化け屋敷を出る頃にはすでにぼんやりした疲労感が身体にへばりついていた。いきなり体力を半分くらい消耗した気がする。はるこはというと至って元気で、出るなりパンフレットを広げて次はここにしましょうその次はここ終わったらここがいいととにかく五月蝿い。そういやガソリン満タンにしてきたからな……。
「おまえ元気だな」
「さあ、次のモヘンジョマウンテンに行きますよオーナー。っと、今何か言いました?」
「言った。もうそろそろ観覧車にしないか?」
「だめです。そろそろってまだ最初のアトラクションから出てきたばっかりじゃないですか。次はモヘンジョマウンテンです」
 モヘンジョマウンテン。この遊園地が誇る、日本唯一の日干しレンガ造りの超弩級ジェットコースターだ。どこの馬鹿だこんなの考えたのは。
「ささ、れっつごー」
 また腕を掴まれ強引に引っ張られる。僕はその馬鹿力に呆れながら、こいつは一体何馬力だったっけと考えていた。



 三台のジェットコースターとひとつの迷路と二台の落下系アトラクションによって体力をほとんど絞り取られきった頃、時計はもうすでに三時を指していた。遅い昼食は最後に乗ったフリーフォールのそばの、園内の外れにあるシーフードレストランで摂った。
 はるこは車だから人間の食物を食べることはない。流石にメニューにレギュラーだのハイオクだのはなかったので、大人しく珈琲だけ頼んでおいた。もちろんはるこは珈琲も飲まないから、これは単なるカモフラージュだ。
 僕が食べている大盛シーフードパスタを、はるこはにこにこしながらじっと見つめている。
「おいしいですか?」
「まあな、それなり」
「私はお料理の味がわからないから何とも言えませんが、オーナーはすごくおいしそうに食べてますよっ」
「それはどうも」
 そこを褒められてもあまり嬉しくない。
 一人で食べているところを見せつけられてもあまり面白くないだろうと思い、はるこの方に話題を向けた。
「ところで、おまえはガソリンの味とかわかるのか? やっぱり種類によって違うのか?」
「いや、どれも大して変わんないです」
 あ、そうなのか。
「でも違いはありますよ。なんて言えばいいんでしょうね、栄養素が違うみたいな感じです。レギュラーはわりとすっきり消化しちゃいますがハイオクはけっこう腹保ちしますねー。ていうかオーナー、オーナーってその時の気分で入れるガソリンころころ変えてますけど、実はハイオクとレギュラーは統一した方が良いって知らないですよね」
「そうなの?」
「そうなんです。私はレギュラー車だからレギュラーだけで大丈夫なんです。確かにハイオクの方が元気になりますけど、使う種類はきちんと統一しないと効率が落ちるんです。自動車学校で習いませんでしたか?」
 正直そんなことを習った覚えはない。教科書にはちゃんと書いてあったのかもしれないが、そうだとしてもそんなところは読んでいない。
「忘れた」
「そんなあ」
 お、ちょっと本気で怒っている。慌てて弁解に走る。
「悪い悪い。今度から統一するよ」
「是非そうしてください。それなら財政的にも」
「ハイオクにな」
「えっ」
 途端にしどろもどろになるはるこ。わかりやすい奴だ。
「そ、それはだめですよ、だって高いですから。オーナー貧乏じゃないですか」
 悪かったな。
「それにですねさっきも言いましたがレギュラー車はレギュラーで充分で」
「いやハイオクにするよ。感謝の意を込めてな」
「あ、それは……
 うー、どうも、ありがとうございます」
 はるこは思っていたよりずっと大人しく引き下がった。食い下がっても仕方がないと思ったのだろう。なんとなく、互いにペコリと一礼する。妙に気まずい気がして言葉が続かない。
 向こうもそれは同じだったに違いない。いきなりパンフレットを取り出すと、僕に向けてテーブルの上に広げて、その中の一点を指差した。
「じゃあですね! それを食べたら次はここに行きましょう。私からも日頃の感謝を伝えさせていただきますよ。普段絶対できないような体験をさせてあげますっ」
 はるこが指差したのは、園内の中央付近に堂々と広がるゴーカート広場だった。
 少し嫌な予感がした。



「おいおい。何やるつもりか想像がつかないこともないが、それって本当に大丈夫なのか?」
「だめでも何とかします」
 ここはゴーカート広場。園内中央付近に位置するだけあって、他の遊園地のそれよりもかなり大きな規模だった。一般的な高校のグラウンド三つか四つ分の面積はゆうにあるだろう。ざっと見回しただけでも、遊園地側の気合いの入れようがわかる。想像通り子供に大人気らしく、ここに近付くにつれ子供の密度が劇的に上昇していった。といっても、このアトラクションで遊ぶことができるのは子供だけではない。
「一人乗りのシングルカーと二人乗りのカップルカー、大人二人子供三人乗りのファミリーカーがありますが、お客様は」
「もちろんカップルカーでお願いします」
 勢い込んで係員に告げるはるこ。僕は見えないところで溜め息をつく。はるこの考えとしては二通りを予想していたのだが、これで狙いは完全に一つに絞られた。
 二つの可能性。一つはシングルカーのはるこが、他の車で追いかける僕に本物の車ならではの強烈なドライビングを見せつけてくれる可能性。そしてもう一つはその車に僕も同乗している可能性だ。
 いざ回ってきたカップルカーに乗り込みながら、はるこが僕の耳にそっと囁く。
「ところでオーナー。カッターとかナイフとか持ってませんか?」
 妙な質問だ。ただのドライビングに刃物がどうして必要なんだ? わけがわからないままにとりあえず答える。
「そんな物騒なものを持ってるわけがないだろ」
「それもそうですよね。冗談です」
 のろのろとスタートラインの列に並ばせながら、前席のはるこの様子を伺う。はるこは何食わぬ顔でポケットに手を伸ばすと、そこから小さな安全ピンを取り出した。
「おい、はるこ、危ないだろ」
「こんなこともあろうかと持ってきました。大丈夫です」
 針を出し、親指の腹に少し突き刺す。見ているだけで痛々しい光景だが、表情は平然としたままだ。見た目ほどの痛みはないのかもしれない。やがて針の刺さった指の腹から、真っ赤な血――ではない、半透明のオレンジ色のガソリンが滲み出てきた。
 はるこが人間ではなく車だと気付かされてはっとする。
「これをですね、そっと」
 指の腹についた雫をうっすら伸ばすように車体をなぞる。ゴーカートが少しだけ振動し、やがてかちりとどこかのロックが外れる音がした。
「この子にガソリンタンクの鍵を外してもらいました。やればできるもんですねっ」
「溶液の効果……なのか?」
「最初は戸惑いましたけど、今ではなんとなくわかるようになりましたよ。できることと、できないこと」
 開いたガソリン口の中に、さらに雫を一滴、二滴。はるこが指を引っ込めると自然に蓋が閉まってロックの音がする。不思議な光景だった。
「これでオッケー、と」
「それじゃ次、ピンクの18番のお客様は青信号になったら発車してくださいねー」
 係員の声が降り注いでくる。ピンクの18番は僕らの乗っている車体だ。気がつくと前の車はすでにスタートし、少し先を走り始めていた。いつの間にか最前列に出てしまったらしい。
「よし、じゃあ行きますよぉ」
「頼むからお手柔らかにな、ほんと頼むから」
「でもこの子張り切っちゃってるから」
 赤、赤……青!
 途端、後ろに引っ張られるような感触がした。思わず首をのけぞらせる。慌てて力を込めて首を前向きに戻すと、急発進したゴーカートの受ける風圧が露骨に顔の筋肉に叩きつけられてきた。
 とてもゴーカートとは信じられないほどの速度で周りの景色が流れてゆく。目線が低い分だけ強烈な迫力だった。バスに乗る時にはるこが言っていた言葉を少し思い出す。目線。大切だ。
「おい、はるこ、ちょっ速すぎっだってっ」
「いけいけー」
 前を走っていたブルーの3番を軽々とかわして突っ走ってゆくピンクの18番。明らかに異常な速度に周囲の注目が集まっているのだろうがそれを確認する余裕は僕にはない。前の席に座るはるこの後頭部と、その先に広がるサーキットを目を閉じずに凝視し続けるのが限界だった。叩きつけられる風の中に、はるこの髪から流れた香水の匂いが混ざっている気がした。
 目の前にU字カーブが迫ってきた。
「ドリフトするんでしっかり掴まってくださいねっ」
「ドッ、ドリ……?」
 ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ。
「う、おわああああああああああ!」
「あはははは、やっぱりオーナーかわいいですっ」
 もう弁解する余裕もない。
 後輪からもうもうと砂埃をあげながら車体が強引に向きを百八十度変える。強烈な横Gに引っ張られて悲鳴がかすれる。大きく尻を振ったピンクの18番はコーナーの出口を見据えると、途端に再び急加速を開始した。
 直線の少し向こうにグリーンの10番の姿があった。ファミリーカーだから図体が大きい。当然、抜き去るべき隙間も狭い。
「あのさ、やっぱりその隙間、」
「どんどん抜きますよー」
「あ、やめてやめてやめてやめてやめてぇぇぇっ!」
 ぶつかりそうな至近距離を巨大なグリーンのフォルムがかすめていった。助手席でこっちを見て目を丸くしているおっさんと一瞬だけ視線が合う。次の瞬間にはその顔はすでに彼方へ吹き飛んでいる。その残像だけを薄く残して、僕の目はすでに目前に迫ったS字カーブに釘付けだ。
「この子ったら元気ですねー」
「あっあっあっあっ怖っこわああああああっ!」
 S字カーブをほとんどまともに曲がらず、最短コースを的確に突きながら疾走するピンクの18番。車輪が縁石に乗り上げるたびに車体が上下する。絶叫する僕と明るい笑い声を上げるはるこ。ぐるぐる世界が回る……。



 当たり前だがこってり絞られた。
 気がついた時にはピンクの18番はとろとろとゴールに滑りこんだところだった。係員が三人ほど駆け寄ってくる。途中からの記憶がない。やりすぎちゃいましたね、と反省の色なく笑うはること、すごい形相で飛んでくる係員たちの顔を僕はぼんやりと眺めていた。車体が停止してもまだ生きた心地がしなかったが、後部座席から降りる際、汗で下着がぐっしょり濡れているのを感じてやっと生の実感が戻ってきた。
 係員詰所でじっくり説教されること一時間。
 免許証の写しを取った上で謝罪誓約の書類にサインをして、やっと僕らは解放された。辺りはだんだんと薄暗くなり始めていた。長く伸び始めた影が園内のあちこちを黒く塗り込めつつある中、遠く何かの鳥の鳴き声が聞こえる。
「あー疲れた」
「あんなに怒られるとは思いませんでした」
「あれだけやったら当たり前だろ……」
 もう精も根も尽き果てた。大盛シーフードパスタで少し回復した分もこれでパーだ。近くに空いているベンチを見つけ、ふらふらと足が勝手にそちらに向く。その腕をはるこにぐいと掴まれた。
「あの、疲れました?」
「もう立って歩きたくない。座りたい」
「だったら」
 はるこは僕の後ろを指差した。
「そろそろあれに乗っていきませんか?」
 夕陽に映える観覧車の巨大な影がすぐそこにあった。



 観覧車にはすぐに乗れた。案内に従って中に乗り込み、はること差し向かって座る。密室で二人きりなわけだが、正直それより椅子の存在が有難かった。ひどく疲れていたんだなと改めて実感する。
 はるこを見ると、彼女の額にも汗が浮かんでいた。はしゃぎ疲れてしまったのだろうか。心なしか、少し辛そうにも見える。
「大丈夫か、はるこ?」
「え? ええ、私はこの通り元気ぴんぴんですよっ。それよりオーナーの方がげっそりしてる気がします。なんか、楽しませるどころか逆に疲れさせちゃったみたいですね……」
「いや、そんなことはない。楽しかったよ」
 本当はもう勘弁してほしかったが、まぁ礼儀だ。はるこの顔がほっとしたのを見て、僕も安心する。
「ちょっとはしゃぎすぎちゃいましたから、呆れられていなければいいんですが」
「呆れる? まぁ確かについていけない時もあったけどな。でも楽しかったからいいんだよ」
「ありがとうございます、オーナー」
 ぺこりと一礼。観覧車の外の風景が少しずつ下がってゆく。木の枝が横に見える。
 なんとなくそれを黙って眺めていると、ぼそりとはるこが呟いた。
「ねえ、オーナー」
「ん?」
「私のこと、好きですか?」
 不意打ちのような質問に固まる。もちろん好きだと言おうと思って、その響きの気恥ずかしさに思わず言葉が詰まる。
 はるこはにこりと微笑むと、僕の返答を待たずに切り出した。
「私はオーナーのことが好きです。ずっと、初めて乗せた時からずっと好きでした。もう五年になるんですよね、私がオーナーにもらわれてから。覚えています? 初めてオーナーが私の運転席に乗り込んだ時、最初に何をしたか」
「ああ。名前をつけた……な」
 僕には昔から物に名前をつける癖がある。三輪車、鉛筆、消しゴム、自転車、机、カバン、財布、腕時計、そして自動車。少しでも愛着をもった物には名前をつけて可愛がってあげたかった。
 だから中古とはいえ初めて手に入れた自分の車に、僕は名前をつけずにはいられなかった。運転席に乗り込んで、ガレージから車も出さずにずっと中で考え続けた。そして決まった名前がはるこだ。由来は恥ずかしくてちょっと言えないが、それなりに気に入ったのでそれから僕はドライブに出掛けた。
「私の前のオーナーは全然そんなことはしない人だったから、なんだかとても新鮮で。それでこの人なら守ってあげたいって気になったんです。一生懸命考えている姿がとてもかわいかったですしねっ」
「……それはどうも」
 そういえば、誰も聞いていないと思っていろいろ下らない独り言も呟いたような気がする。参った、全部こいつに聞かれていたのか。身をよじりたくなるほど恥ずかしい。
 観覧車は少しずつ上昇してゆく。雲が近くなる。遮蔽物が失われ、ゴンドラの中に射し込む夕暮れの陰影が一層明確になる。小さく金属が軋む音がする。
 はるこが口を開くと、強い香水の匂いがした。
「私はもらったはるこという名前を大切にしようと思いました。自分に名前がつけられる日なんて来ないと思ってたから。だから私ははるこという名前で、オーナーは私の恩人なんですよ」
「そんな、名前をつけたくらいで大袈裟な」
「大袈裟でもなんでもありません。それくらい私のことを考えてくれたってことなんですから。それに、名前だけじゃなくて、オーナーは私を本当に大切に扱ってくれましたしね」
 大切に扱った……本当にそうだろうか。僕ははるこを大切に扱うことができたのだろうか。
 違うと思う。
「そんなことはないよ」
「そうなんです。少なくとも、私にとっては」
 確固たる口調に反論の言葉を失う。はるこの背後から強烈な逆光が差し、彼女のシルエットが光線の中に消える。観覧車はもう天頂まで昇り詰めていた。すぐにゆっくりと降下を始める。雲がまた、少しずつ遠くなってゆく。
 光の中の口が呟く。
「ねえ、オーナーは知らないと思いますけど、私はオーナーに買っていただく前、事故で人を轢いてしまったことがあるんです」
「え……」
 沈黙する。初耳だ。購入した時も、そんな話は聞かなかった。
「前のオーナーは話したように少し乱暴な人でしたから、ちょっとした直線でもいっぱいスピードを出してました。それである秋の夕暮れ、学校帰りの子供さんを轢いちゃったんです。子供さんは幸いにも骨折程度で済んだんですけど、その拍子に私も電柱に頭をぶつけてしまいまして。とりあえず直してはくれたんですが、縁起が悪いって言われて結局あっさり捨てられちゃいました」
 特別な感情を込めずに淡々と語るはるこ。僕は前のオーナーを想像する。縁起が悪いという程度で簡単に車を変えるのだから、きっと金持ちのボンボンか何かだったのだろう。そして、物を大切にしない奴だったのだろう。
「でも、前のオーナーのことも、私の怪我のこともいいんです。問題は、私は人を安全に運ぶために生まれた乗用車なのに、人を轢いてしまったということなんです。それに比べたら、他のことはどうでもいいんです」
 光が薄らいで、辛そうに曇ったはるこの表情が見えた。僕は何も言えない。車にもちゃんと悩みや苦しみがあるんだ――そんなどこか場違いなことを考えていた。
「私、自分のことを車失格だと思ってました。人を傷つけちゃったんですから。あっさり売られたのも、売られた先で事故車に相応しいような酷い扱いをされたのも、車失格なんだからそう扱われて当然だって思ってました。でも、格安で流されていた私を拾ってくれたのがオーナーでした。オーナーはとてもいい人で、私のことをちゃんと車扱い……いいや、それ以上に大切に接してくれました。私は、だから、もう一度だけやる気になったんです。今度こそ誰も傷付けないように頑張ってみようって。中に乗っているオーナーも、私の周りを歩いている人たちも、みんな、絶対。だから」
 はるこの言葉が微かに震えた。俯いて、涙をこらえているようだった。思わず手を伸ばそうとして、自分にその資格があるのか躊躇った。砂のような刹那が流れる。結局、僕が触れる前にはるこは自ら顔を上げた。
「だからですね、今日は――とても楽しかったですよっ」
 観覧車がゆっくりと地面に近付く。僕は伸ばしかけていた手をひっこめようとして……そのままはるこの手を掴んだ。はるこが僕を見る。僕は気にしないふりを装って降りる準備を始める。
 と、降りる前にこれは言っておかなければならない。
「はるこ」
「何ですか?」
「僕はおまえのことが好きだ」
 はるこは少し目を見開き、そして小さな声で、私もオーナーのことが大好きですよ、と繰り返した。

 手を繋いで観覧車を降りると、辺りはすでに薄暗闇に包まれ始めていた。沈みかけの太陽が木々の梢に消えつつある。少し冷たい風が頬を撫でる。
 はるこは僕の横でどこか遠くを見つめている。
 さっきのはるこの言葉は、何か違う言葉に続いていたような気がしてならなかった。



 遊園地を出て帰りの駅に向かおうとすると、はるこがいきなり僕の手を引っ張って引き止めた。
「どうしたはるこ。家に帰らないのか」
 はるこは僕の手を握ったまま、動こうとしない。俯き加減の表情は暗くてよく見えない。まるで僕を駅に行かせまいとしているようだ。
「はるこ?」
 はるこの様子がおかしい。不審に思ってもう一度名前を呼ぼうとすると、はるこの口から小さい言葉が漏れた。
「……だめです」
「え?」
 家に帰りたくないのだろうか? それは……そういう意味なのか? しかしはるこは……
 いろいろな意味で混乱していると、はるこがさっと顔をあげた。普通の表情だった。
「ごめんなさい。あのですね、折角だから、どこかで食べていきませんか?」
 ああ、そういう意味か。ちょっとだけがっかりしたが、しかしそれよりも、安心した。
「おう、僕は別に構わないけど……そういうおまえがつまらないんじゃないのか?」
「そんなことないですよ。お酒を頂きますから」
 車とお酒。危なっかしいことこの上ない取り合わせだが、それ以前に車が酒なんか飲むことができるのだろうか。それともガソリンのことを比喩でお酒と言っているのだろうか。判断がつかなかったので、とりあえず訊ねてみる。
「あのさ、おまえ酒なんか飲めるの?」
「飲めますよ。同じアルコールですから大丈夫です」
 これはまたすごい理屈だ。まぁ、彼女が大丈夫というからにはきっと大丈夫なんだろう。さっき、できることとできないことの区別はつくのだと言っていたし、本人も無茶をして僕を困らせることを良しとはしないはずだ。
「おまえがそう言うなら、行くか」
「ありがとうございますっ」
「さて、それで店はどこにしようかな」
 そう僕が呟くとはるこは遊園地のパンフレットを突き出して、その隅を指差した。
「それなら、ここにしませんか? 私、ここにすごく興味があります」
 レーサー居酒屋マッドエンジン。成程、確かに強くそそられるものがある。どんな店だよこれ。場所を確認すると、ここから歩いて十分程度のビルにあった。これなら問題のない距離だ。
「じゃあそこにしようか。レーサー居酒屋って確かに気になる」
「決定ですね。それじゃ行きましょうよっ」
 言うなりまた腕に抱きついてくる。お化け屋敷の時にも増してすごい力だ。それに心なしか、前回より体重を預けてきているような気がする。二の腕にちょっとだけ胸の感触がする。
 少しどころではなくどきどきした。



 僕は酒が飲めない。ビールをちょろっとなめただけで、ぐでんぐでんに酔っ払ってしまうくらい弱いのだ。だから「ガソリン一覧」と題されたアルコールメニューの大半は無視して、仕方なく隅っこのソフトドリンクの欄からジンジャーエールを注文した。
「私はウォッカをロックでお願いしますっ」
 のっけから強烈なリクエストだ。さらに適当に二、三品の食べ物の注文を付け加えて店員が引っ込むのを見届けてから、はるこにその旨を突っ込んでみた。
「アルコール度数はなるべく高いやつの方がいいんです。決して飲ん兵衛だからじゃありませんっ」
 ならそんなにワクワクしているのは何故だ。
 期待していたレーサー居酒屋は、確かにレーサー居酒屋としか表現しようのない店だった。店内は主に赤と白という派手な色使いで統一され、店員もレースクイーンのようなひどく露出度の高い制服を身につけている。レーサーのサインと思しき物が壁一面を埋め尽くし、まるでレーシングカーの座席のようなカウンター席に案内された時には二名様ピットインなどとまで言われた。が、どうやら本当の由来は、この店の店主がA級ライセンスを持つほどの車好きであるところから来ているようだった。紹介とも自慢ともつかない文章がメニューの隅のコラムに書いてあった。
「でもこの店って、確かに内装は凝っているけど、逆にいろいろ実用性に欠けてないか?」
「そうですか?」
「例えばこの椅子とか。F1のシートじゃあるまいし。僕らのようなのはともかく、家族連れとか大変じゃないのかこの座り心地じゃ」
「そうでもないですよ。ほら、向こうのお座敷は割と普通に4WDみたいな快適なシートじゃないですか」
「え? ……ああ、ほんとだ」
 よくわからない店である。
 そうこうしているうちに飲み物が届く。タンクみたいな変な入れ物に入っていることを除けば、普通のジンジャーエールとウォッカだった。
 ウォッカを前に上機嫌のはるこが言う。
「それじゃ乾杯しましょうね。えっとオーナー、何かひとことお願いします」
「ひとことって……そんじゃ、今日の素敵なデートに乾杯」
「かんぱいっ」
 ちん、とタンクを鳴らして液体を煽る。程よく疲れた身体に冷たいドリンクの流れる感触が心地良い。三分の一ほど飲み干してからタンクを置くと、はるこのウォッカが入っていたタンクはすっかり空になっていた。
「ぷはあ、うまいっ」
「早いなオイ」
「早いんですか? 私、居酒屋って初めてだからわからないんですけど。でもまだまだいけますよっ」
「まぁ、ほどほどにな」
 ところが最初の勢いだけはあったものの、実際のところははるこもそんなに酒は強くなかったらしい。ウォッカの二杯目を半分飲んだところで彼女の目が座り始めた。飲み干す頃には呂律が怪しくなった。構わず三杯目を要求しようとするはるこを押さえて、僕はやってきた店員に代わりに軟骨のから揚げを注文した。
「ほどほどって言っただろ。あまり無茶するなよ」
「無茶らんかしてませんもん」
「呂律が回ってないぞ。ほら、とりあえず一旦飲むのをやめな」
「うう」
 全く、これじゃアルコールなら大丈夫だという言葉も怪しいものだ。はるこは身体を持て余すように深く椅子に沈み込むと、上目遣いで僕を見ながら言った。
「オーナーと一緒にお食事がでひるチャンスなんてもうないですもん。そりゃ無茶だってしますよぅ」
「僕はそんなこと望んでない。無茶はするなよ」
 するとはるこは露骨に仕方ないといった風に頬を膨らませて、子供のように挙手した。
「ならやめまーふ。オーナー優ひいから言うこと聞かなきゃバチあらりますからねー」
「なんだそりゃ。当てつけか?」
「当てつけなんかじゃないですよー。あのね、オーナーは優ひすぎるんですうー。知ってまふ? 私今日ここに来る時、ずっと黙ってたでしょう。あの時でふね、私はバスや電車と会話してたんですよー」
 驚いた。ただ車窓から風景を眺めていただけじゃなかったのか。だが、言われてみればゴーカートとも無言で意思の疎通はしていたようだから、バスや電車ともそれができたとしてもなんら不思議ではない。
「二人ともオーナーのことは知りませんでひたけどね、いろいろ話したらやっぱりとても優しい人だって言ってくれましたよお。普通名前までつけて可愛がったりしないって。うらやましいって。いいだろーって思わず自慢したられすねー、バスはそうだねって言ってくれたんれすけど、れも電車には、今そのオーナーを乗せて走っているのは私らって言われたんですよう。もう私、悔しくって悔しくって」
 電車の中で、不意にはるこが見せたあの表情。あの時の沈黙の意味はそういうことだったのだろうか。
 はるこは上目遣いのまま、少し荒い息の中、夢を彷徨うような口調と表情で呟いた。
「ねえオーナー、お願いがあるんです、私。私が側にいられる間だけでもいいです。いいですから、私以外の子にはもう絶対絶対乗らないでくださいね。電車もバスもだめです。私が全部送り迎えします。だからお願いですから、私がそこにいる間は、絶対私以外の子には乗らないって誓ってくれませんか?」
 ああ……と、気軽に頷こうとして、気がついた。
 今日これから家に帰るには、何らかの交通手段を使わなくてはならない。
 だがはるこはそれを禁じたのだ。
 なぜ?
 決まっている。他ならぬ自分自身が、僕を乗せて家まで連れて行くつもりなのだ。一台の車として。

 溶液の効果がもうすぐ切れてしまうことを、はるこは知っている。
 なのに何故そんなに楽しそうなんだ。


 溶液の効果が切れてただの車に戻ってしまったはるこは、明日には廃車になってしまうというのに。



「……ごめんな」
 思わず口から言葉が漏れた。はるこが小さく首を傾げる。僕はうなされるように語り出す。
「本当にごめんな。僕がこんなだから、はるこにはひどい迷惑をかけた。謝っても謝りきれない。まだそんなに若いのに。僕が不甲斐ないからこんなことになってしまったんだ。僕が事故さえ起こさなければ、こんなにあっという間に別れなくても済んだのに。僕がもっと大切に運転していれば、もっともっと長く乗っていられたのに。優しいなんて嘘だ。僕は君の前のオーナーなんかよりずっとひどい男だ。どうしようもないことをやって、それでこんなことで罪滅ぼしした気になって自己満足で済ませようとしてる。最低だ。僕は全然いいオーナーなんかじゃなかった。僕なんかにははるこはもったいない――」
「ねえ、オーナー」
 熱い雫のようなはるこの声が僕の垂れ流す言葉を遮る。僕は気圧されたように口をつぐむ。はるこは言った。
「オーナーは今日、本当に罪滅ぼしのためだけに私をデートに誘ったんですか? それとも――そんなことがなくても、私をこうやって遊びにつれてってくれたんですか?」
 考える。ガレージできょとんとしていたはるこに毛布をかけたことを思い出す。笑顔でデートの誘いを了承してくれたことを思い出す。はるこが突然化粧をしたいと言い出したことを思い出す。バスや電車の中ではるこがじっと外の景色を見ていたことを思い出す。遊園地ではしゃぐはるこの腕の力を思い出す。レストランでガソリンの話をした。ゴーカートで映画のような無茶な運転を経験した。死ぬかと思った。観覧車の中で二人向かい合って昔の話をした。恥ずかしい思い出に身悶えしそうになった。変な居酒屋に入って、はるこの考えていたことを聞かされた。思っていた以上に、はるこにはずっと「こころ」があったことを知った。
 そうだ。
 そうなのだ。
 ものにはこころがある。
 車だけじゃない。
 服にも、靴にも、コップにも、時計にも、本にも、テーブルにも、家にも、電柱にも、木にも、街にも、土にも、地球にも、そして人間にも同じように、存在の一番深いところにそっと包み込まれるようにして、想い感じる柔らかいこころは確かに息づいているのだ。
 そういう意味で、僕らはみんな同じだ。
 それが例え何であろうと、誰かを、何かを愛することに隔たりなどない。
 それが人間であろうと、ものであろうと、見えない何かであろうと――愛し大切に思う気持ちに変わりはないのだろう。
 目の前のはるこは、例え人間の姿をしていても、車であっても、そのどちらでもなくても、きっと何も変わらない。
 こころがあるから。
 僕と同じような、柔らかいこころがあるから。
 そして彼女のこころは、今日のこのデートで、ほんの少しだけその本当の姿を見せてくれたのだ。
 そのことがただひたすらに嬉しかった。
「……嬉しかった。罪滅ぼしとかそういうのは関係なく、はることいると楽しかったし、嬉しかったよ」
「ならいいんです」
 はるこは静かに、にっこりと微笑んだ。
「誓ってくれますよね? 私の目の前で、私以外の車には乗らないって」
「誓うよ」
 まっすぐ目を見てはっきり言った。
 はるこはその言葉に満足して、次の瞬間にはそっと目を閉じて小さい寝息をたて始めた。



 一ヶ月前の春の日、僕は自動車事故を起こした。
 少しだけ余所見をしていて、気がついた時には車道の真ん中に子供がいた。
 避けようと思ったが反応がついてこなくて、ブレーキを踏むのが遅れた。
 絶対に轢いてしまったと思った。
 が、その瞬間、僕の乗った車はひとりでに曲がって道路沿いの塀に衝突した。
 子供にも僕にも怪我はなかった。
 しかしその事故のショックで、車は深刻なダメージを背負ってしまった。

 修理してももう二度と満足に走れないだろうと言われた。
 理想的だが実現困難な解決法と、現実的だが残酷な提案の中で僕の心は揺れ――
 結局、現実的な提案が勝った。
 事故の検分が終わって、車が手元に戻ってきた。
 動かすのがやっとの車を自宅のガレージに入れ、そこで彼女の傷跡を見ながら考えた。
 はるこのためにできることは何か。
 自ら名前をつけてずっと可愛がってきたパートナーに、最後にできることは何か。
 僕は彼女に何をしてあげるべきなのか。

 溶液の存在を知ったのは、その三日後だった。



 すっかり意識をなくしたはるこを支えながら、長い長い帰り道を歩く。
 ずっしりと、信じられないような重さが肩にのしかかってくる。店を出た時はまだ背負える程度だったのだが、今はもう横から支えるのが精一杯だ。溶液の効果が切れ始めて、同時にはるこは本来の車の姿に戻りつつある。人間でいられる間は相応の体重であったとしても、本来の姿が戻ってくるにつれて、体重も少しずつ元に戻ってゆく。溶液を購入した時に受けた説明の通りだった。
 はるこはもうじき自力で動くことも喋ることもできなくなる。溶液の効果は長くて一日。そして一度しか効かない。
 そして車に戻ったはるこを待っているのは、すぐに廃車になる運命だけだった。
 一歩進むごとに、はるこの身体が確実に重くなってゆく。分厚い鉛の板を一枚一枚くくりつけられていくようだ。いくら小型とはいえはるこは乗用車なのだ、とても人間に背負える重さではない。
 だが、はるこ以外の乗り物には乗らないと誓った。今彼女を家まで連れて帰ることができるのは僕しかいないのだ。
 そのことを辛いとは思わなかった。
 少しでも長く彼女といられるのなら、どんな苦痛にも耐えられるような気がした。
 誰もいない夜の街、国道沿いの歩道をはるこを抱えて歩く。月の大きな綺麗な晩だった。風も心地良い。春特有の、少しだけ湿り気の混ざった風だった。車は一台も通らない。ただ点在する街灯の明かりだけが道の向こうまでどこまでも続いていた。
「オーナー」
 小さな声を聞いて顔を見ると、はるこが目を覚ましていた。まだ少し目が据わっている。夢うつつ、といった表情だ。
「ほれ寝てろ。僕が家まで連れていってやるからさ。まだ一人じゃ満足に立てないだろ」
「でもオーナー」
「いいから」  逃げようとするはるこを強引に引き寄せる。密着した彼女の身体はどうしようもなく冷えていて、垂れ下がった髪からは香水に混じって微かな鉄の匂いがした。ずしりと重たくのしかかるはるこの身体。逃れられない限界の予感が目前まで迫っていたが、そのことを認めたくなかった。
「はるこは何も気にするな。ふたりだけで帰るんだろ? 大丈夫、誓ったからな」
「そんなの無理ですっ」
 振りほどかれた。反動でよろめきながら見たはるこの目は、すでにはっきりと醒めていた。彼女は自分の言葉にびっくりしているような表情で立ち尽くしていたが、一呼吸ほどの間を開けて、目線を地面に落とした。
「……そうなんです、無理なんです。もう」
「何がだよ」
「自分の身体のことだからわかります。もう終わるんです。家までもたないんですっ」
 何も言い返せなかった。
 はるこは目を伏せたまま、風の音にまぎれてしまいそうなか細い声で言った。
「最後にお願いがあります」
 月明かりが、はるこの人間の姿をはっきり映し出していた。
「少しだけ、後ろを向いていてもらえませんか」
「どうして」
「見られたくないんです」
 何を、とは言わなかった。聞く必要もなかった。彼女なりの最後のプライドなのかもしれない。
「わかった」
 ゆっくり、はるこに背を向けた。
 背中に彼女の気配を感じた。その気配が、不意にどうしようもなくざわめいた。
 変身が始まる。
 いや……変身が、終わるのだ。
「オーナー、今日は本当にありがとうございました」
 少しずつ鉄がねじ切られていくような異音の中、はるこの言葉がはっきりと聞こえた。僕は後ろを向いたまま、彼女の言葉を受け止める。巨大な獣が機械を噛み潰すような、激しい金属音と破壊音が背中に響く。
 たった一日の魔法が解け、彼女は車に還ってゆく。
「生まれて初めてのデート、本当に楽しかったです。夢みたいでした。最後にこんな思い出をもらえて、はるこは幸せでした」
「違うだろ」
 思わず返した。え、とはるこが小さく呟く。
「初めてじゃないだろ。これまで五年間、ずっと」
 ずっと、おまえと一緒にデートしてきたじゃないか。
 喉がうまく動かなくて、ちゃんとした言葉にならなかった。
 はるこからの返事はなかった。終わりを告げる激しい破壊音と背中に感じる閃光の中、ただ彼女の笑みの気配のようなものが伝わってきただけだった。目を硬く閉じる。拳を握り締める。はるこの顔が瞼の裏に浮かんでくる。その笑顔がもう見られないのだと思うと悲しかった。万に一つもない何かの弾みで、溶液の効果がずっと切れなければ良いと願ったことを思い出して余計に悲しくなった。
 が、これから――明日までの短い間は、車のはるこを愛せば良いのだ。
 本質は何も変わらない。はるこはまだ、自分の横にいてくれる。
 そう思うと、なんとか涙を堪えられそうな気がした。
 どのくらいの時間が経ったのかわからない。気がつくと音はすっかり止み、静まり返った夜の空気が身体を包み込んでいた。恐る恐る目を開け、意を決して振り返った。変わらないはるこが、すぐそこにいてくれているはずだった。

 そこには、塗装が剥げ、ドアがへこみ、ライトがひび割れ、フロントに巨大な傷痕のついた、今にも崩れ落ちてしまいそうな、スクラップ同然の小さな壊れかけの車だけが、ぽつんと佇んでいた。



 まともな言葉が何ひとつ浮かばない。夢遊病者のような足取りで車に近付き、車体に軽く手をつく。夜の冷気がぼろぼろのボディをひんやりと冷やしていた。そこに生命の気配はなかった。ただの鉄の塊が、鈍く月の光を反射しているだけだった。
「はるこ」
 名前を呼ぶ。返事はない。ふらふらとよろめきながら、取り憑かれたようにドアに手をかけた。鍵は開いていた。何かがひっかかるような感覚があり、鈍く引き裂くような軋みがして、馬鹿みたいに重たいドアは半分ほどしか開かなかった。事故の時、僕や子供の安全と引き換えにはるこが負った傷のひとつだ。狭い隙間から身体を車の中に無理矢理滑りこませる。運転席に座る時、助手席にはるこの着ていた服がきちんと畳んで置いてあるのがちらりと見えた。
 崩れ落ちてしまいそうなほど重い気分を抱えながら、ステアリングに顔を埋める。さっきは耐えられると思った。だが、こうして動かなくなったはるこを目の当たりにすると、どうしても割り切れない何かが胸の奥に込みあげてくる。車だろうが、人間だろうが、はるこははるこだと思っていた。しかし、車のはるこは、もう喋ることも笑うこともできないのだ。
 こうすることを決めた時から覚悟していたはずのことだ。奪われるのを承知で手にしたはずだった。
 はずだったのに。
 と、その時、小さな温もりを感じたような気がした。戸惑う。ここにいるのは僕一人だけで、周りには誰もいないはずだった。しかし、自分以外の誰かの気配が車の中に満ちていて、僕の周囲をうっすら漂っているのが感じられた。
 それははるこの香水の匂いだった。
 出かける時、つけすぎてしまったのだろうと軽く流した、あの香水の匂いだった。お化け屋敷で、ゴーカートの後部座席で、観覧車の中で、いつも感じていた彼女の匂いだった。それが今は物言わぬ車の中に満ちていて、ハンドルに覆い被さるように深く身体を預け、いつまでも俯き続ける僕を、そっと慰めてくれているのだった。
 元気を出してください、というはるこの声が聞こえた気がした。



 はるこは、確かにそこにいた。



 僕は抱きかかえるような姿勢でハンドルに顔を埋めたまま、使い慣れたステアリングにそっと口づけた。はるこの唇には柔らかさも温かさもなかったが、確かに彼女の存在が感じられた。
 顔を上げる。明日には――明日には、今度こそ本当に彼女と別れなくてはならない。だけど、せめて業者にはるこを引き渡すまでは、僕は彼女と一緒にいることができるのだ。
 まだデートは終わっていない。
 キーは鍵穴に刺さっていた。全身ぼろぼろの車だが、それでも動くことはできる。無理をさせずにゆっくり走れば、少しの間なら乗れるだろう。ガソリンの残量を見る。ほとんどなくなりかけていたが、最寄のガソリンスタンドを探して補給するまで保つ程度には残っていた。窓の外を見る。深夜の国道に他の車は走っていない。まるで僕とはるこを未来へ導くように、遠く近く、街灯の光だけが道路の彼方まで点々と続いていた。
 何をするにも、とにかく時間がない。急いで行き先を決めよう。それを決めながら、まずガソリンの補給をしよう。ハイオクを満タンまで入れて、はるこの調子を確かめて、それから目的地に向けて今すぐ走り始めよう。
 いや、目的地なんてなくてもいい。夜明けなんて待たなくてもいい。今すぐはることのデートに出かけよう。
 時間も、行き先も選ばない。ただその時の気分に任せて、ふたりきりの旅路そのものを楽しむ。はるこの理屈風に言うなら、それがドライブというものだろう。
「どこに行きたい? はるこ」
 はるこは答えない。僕も答えを求めない。エンジンをかける。微かな振動と共に車体が息を吹き返す。はるこの意志に沿ってきちんとシートベルトを締め、ライトを点し、サイドブレーキを下ろして、クラッチを踏んでギアをローに入れる。大丈夫、はるこはまだまだ走れる。左右に気をつけながら、歩道から国道に躍り出る。とりあえずは自分の家のある方向へ。ガソリンスタンドを見つけなければならない。ギアを上げる。無事に給油が済んだら、それから本当のドライブの始まりだ。
 できるだけ優しく、傷つけないようにそっとアクセルを踏み込む。はるこは迷わずそれに応える。タイヤが地面を掴む確かな手応え。加速する僕と僕の車。明日はまだ遠く、夜はまだ終わりを知らない。
 ギアをさらに一段上げる。はるこが楽しそうに歓声を上げる。
 このデートは、きっと楽しいものになるだろうという確信があった。



(了)



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