彼女と風子と扇風機


見たことのない女を引き連れ、彼女は僕らの暮らすアパートの部屋に戻ってきた。

時は1989年。
じっとしているだけで汗が滲んでくるような蒸し暑い日だった。

彼女は玄関のドアを開けるなり靴を脱ぐのもわずらわしそうに、
つかつかと早足で部屋の奥まで来て、力いっぱいガラス戸を開け放った。
かすかに色のついた風が部屋に少しだけ入ってきた。
その空気は決して涼しいと言えるようなものではなかったけど、
締め切ってじゅんじゅんと蒸した部屋の雰囲気を変えるには十分だった。
彼女は全開に開いた窓から熱気に揺れる寂れた住宅地を一望して満足そうに頷き、
それから漸く振り返って玄関で立ち尽くす女に向かって明るい声で呼びかけた。

「入ってきなよ。今日からここがあんたの家よ」

女はそのあと二秒くらい呆然と立ち尽くしていたが、
何かに気がついたような顔をして、小さな声でおじゃまします、と言った。
だが彼女はすでに奥の台所で冷蔵庫から麦茶を出していたので、
誰にも聞かれなった彼女の声は僕とガラス戸だけを通り抜けて夏の街に消えていった。

「何もないけど、とりあえず座って」

彼女に言われた通りに女はちゃぶ台の前に座り、
控えめな視線を部屋中に這わせた。
彼女は基本的に物に頓着しないタイプだったから、
そこにあるのは必要最低限の家具と本、
そして低い音で回り続ける水色の羽の扇風機だけだった。
女は出された水滴の浮くグラスから麦茶をひと口だけ口に含み、
持参してきた傍らのドラムバッグからプラスチックの弁当箱を取り出した。

デザートなんだけど、よければ食べませんか。

蓋を開けると中には五センチ大のスイカの切れ端が五つ入っていた。
彼女はにっこり笑ってスイカを手に取り、美味しい、と元気な声で言った。
女は彼女の無邪気な笑顔を見て、何か救われたような顔をした。
それで、彼女たちの儀式は済んだようだった。

女はその日からずっとこの部屋で暮らすようになった。
どこから来たのか、どうしてここに来たのかはわからない。
しかし、朝早く起きて彼女のための弁当を作り、
仕事に出かける彼女を嬉しそうな笑顔で見送り、
テレビもない部屋で昼の間じゅうをずっと過ごし、
夕方ごろに冷蔵庫の余り物でふたり分の夕食を作りはじめる、
そんな生活を女は気に入っているようだった。
僕は彼女が水色の小型の扇風機を特に気に入り、いつも隣に置いていることから、
女に風子という名前をつけた。
風子はいつも幸せそうに笑っていた。
誰もいないがらんとした古い部屋で、
風子は扇風機の風を受けて目を閉じていることが多かった。

「夢みたい」

たった一度だけ、風子のこんな言葉を聞いたことがある。
薄く広がる雲が街の向こうに果てしなく広がっている、ありふれた夏の日のことだった。
テレビもない、ラジオもない、蝉の声だけが響く古いアパートの一室で、
風子の祈るような呟きは汗ばんだ家具の隙間にじんわりと染み通っていった。
独り言をほとんど言わない風子がたった一度だけ呟いたその言葉は、
彼女さえも知らない世界のひとつとして静かに日々に溶けていく。

夜、仕事から帰ってきた彼女とふたりで他愛ない話に花を咲かせ、
奥の部屋に敷いた布団で早々と眠る。
夏の間、風子の日々ではずっとそんなサイクルが繰り返されていた。
少しずつ、しかし確かに必ず違う出来事の起こる日々。
夏が進むにつれて浅黒くなってゆく彼女と、
それとは対象的にほとんど様子の変わらない風子の白い肌が印象的な夏だった。


彼女を見送ったあとの風子は、
決まって最初にドラムバッグから一冊のノートを取り出した。
風子の日記だ。
風子はちゃぶ台にノートを置き、水色の扇風機をすぐ横に置いて、
安物のシャープペンシルと消しゴムを引き出しから取り出し、
それから二時間ばかりかけてノートにいつも何かを綴っていた。
一回に一ページずつ、きっちり最後の行まで埋められていることがほとんどだった。
それを風子は最後まで、休まずに一気に書き上げる。
たまに無表情の時もあったが、とても楽しそうな顔をしていることが多かった。
一通り筆を走らせて、きりの良いところまで書き上げたら、
風子はノートをぱたんと閉じて元通りのバッグの底に仕舞い込んだ。
風子はその日記のことを彼女に教えようとはしない。
彼女と一緒の部屋に暮らす風子の唯一の秘密のようだった。
ノートはそのまま誰にも見つからない場所で暑い暑い一晩を過ごし、
翌日の出番が来るまでじっと暗がりで待ち続けている。
日付が変わって彼女がまた仕事に出たら、
再び嬉々とした風子の手によってノートはちゃぶ台の上に置かれる。
扇風機も横にある。水色の羽はぶうんと回転し、風子の短い髪をさらさら揺らす。
揺れる髪を気にも留めず、風子は夢中になって日記を綴る。


夏が半分過ぎた頃だった。
その朝、いつも夜明けと共に起きる風子が寝坊した。
風子は彼女に起こされ、ごめんなさい、とかすれた声で言った。
彼女はなんとも言えない顔をして風子をじっと見つめたあと、

「何かあったら、すぐに電話しなさい」

とだけ言って、弁当を持たずに仕事に出て行った。
風子は深いため息を一回だけついたあと、
彼女の用意した質素な食事をかみしめるように食べた。
扇風機はその日に限って止まったままで、
開け放した窓から届く熱気が風子の白い肌をほのかに上気させていた。

「まだ」

風子はそう呟いて、バッグからノートを取り出した。
扇風機は使わない。
いつもと違って表の蝉の音だけが響く蒸し暑い部屋の中で、
風子は真剣な表情で何かをずっと書き続けていた。

それから風子は誰もいないアパートの部屋の中で、床に伏して日中を過ごすことが多くなった。
風子がひとりの時、扇風機は布団の横に置かれる場所を変え、
少しだけ首をかしげて、横たわる風子の頬に風を送るようになった。
扇風機の静かな音と夏の町のさざめきが細かく混ざった部屋の中、
窓から入りこむ熱気にかすんだ光が誰もいないちゃぶ台を照らしていた。
風子は天井を見ながら、無言で物思いにふける。
反射した光に照らされたぼろアパートの天井に見つけた染みのひとつひとつに、
自分だけの名前をつけてそっと会話しているような静けさだった。
夕方、太陽が少しだけ赤い光を帯びてくる頃、
風子はむっくり起き上がり、彼女のための夕食の支度を始める。
朝弁当を作る習慣がなくなり、そしてひとりの昼食をとらない風子にとって、
その日初めての食事の支度。
震える手で野菜を切り、鍋いっぱいの水にコンロの火をかけ、
慈しむような表情でふたり分のスープを作る。
やがて彼女が帰ってきたら風子は満面の笑顔で出迎えて、
これまでと変わらない、とりとめのない会話と夕餉がまた始まる。


奇跡的なくらい、晴れの続く夏だった。
風子のノートは一枚一枚と丁寧な文字で埋め尽くされてゆき、
このままずっとこんな日々が続く夢を彼女が見始めた頃、
ノートを最後まで使い切る前に、風子は倒れた。

倒れた風子を布団に寝かせたあと、彼女は仕事先に休む連絡を入れ、
それから彼女と風子と水色の扇風機の長い長い話が始まった。
彼女は何回か声を荒げ、そのたびにはっとしたような表情になって、
風子はそんな彼女を見るたびに、視線を窓の外の青空へと向けた。

「もう、無理だよ」

まだ無理じゃありません。まだ。まだ。まだ。
風子は繰り返されるその言葉を必死で否定し続けた。
だが、扇風機の影がゆっくりと伸び始めるような時間になって、
ようやく風子はこっくりと彼女の言葉にうなずいた。
彼女はまたどこかに電話をかけ、そのあとで風子の着替えを手伝い、
陽が傾く前に風子の肩とバッグをかついで重い鉄のドアから表に出て行った。
風子はドアから数か月ぶりの外に出た瞬間、
これまで自分が過ごしてきた古くて質素な部屋の中に、ちらりと目を走らせた。
それで終わりだった。
がちゃんと強い音を立ててドアが閉まったあとの部屋の中では、
取り残された扇風機が風子のいない布団に向かっていつまでも風を送り続けていた。

その夜、戻ってきたのは彼女だけだった。
彼女は部屋に入るなり、手に提げたビニール袋から買ってきたばかりのビールの缶を取り出し、
明かりもつけずにそれを一気に飲み干した。
空になったビールの缶は台所の冷蔵庫に思い切り叩きつけられ、
彼女は扇風機を止めることも忘れてちゃぶ台に顔をうずめて寝た。


風子の来る前と同じような生活が始まった。
彼女は風子がいた頃と同じように毎朝仕事に出かけてゆき、
部屋はしばらくの沈黙を経て、夜には彼女ひとりの晩餐が始まる。
彼女は酒をよく飲むようになった。
それほど酒に強くない彼女はいつもたった一本の缶ビールでぐったりと酔っ払い、
その場に倒れこむように朝まで眠る。
そして、赤い目をこすりながら仕事にまた出かけてゆく。
誰もいなくなった部屋では閉じたガラス戸から射す夏の光が宙に浮くほこりを照らし、
風の流れのない空間には熱気と湿気がどんどん溜まってゆく。
出しっぱなしの布団も、空き缶ばかり並ぶちゃぶ台も、
布団のそばの水色の扇風機も動かない。
小さく響く外の喧騒が部屋の中をじんわりと満たし、
夏がまた一歩終わりに向けて傾いてゆく。

そんな彼女の生活が少しだけ板についてきた頃、
休日の彼女のもとに一本の電話がかかってきた。

「すぐ行く」

彼女は真剣な表情で電話を切り、
大慌てで身支度を整え急いで部屋を抜け出していった。
開け放たれたままの窓から無人の部屋に涼しい風が忍び込んできて、
止まったままの扇風機の羽を半回転だけ動かす。

風子のノートを持って彼女が部屋に帰ってきたのは、
それから三日後の昼下がりの光の中だった。

風子のノートを読んで、彼女は泣いた。


風子はこの部屋に戻って来ない。
だが季節が秋に変わっても彼女は毎日仕事に出かけてゆくし、
夜には帰ってきて明日に備えて早々と眠る。
いつしか彼女の酒の量も段階的に減ってゆき、
元通りの日常がまた部屋の時の流れを支配するようになった。
奥の部屋にぽつんと置かれた、水色の小型の扇風機を残したままで。

風子はもう戻って来ない。だが、彼女が泣くことはもうない。
1989年の夏は終わったのだ。
彼女が一緒に暮らした女の夏は、もう終わったのだ。
そのことを彼女はゆっくりと実感して、そして来るべき冬に備え、部屋のガラス戸を閉める。
ただ、扇風機だけが、まだそこにある。


彼女と風子とこの部屋の、1989年の夏。
風子のいた、たったひとつの夏。

今も僕は、そして恐らく彼女も、
その夏のことを、たまに思い出すことがある。


(021 [扇風機] 彼女と風子と扇風機/終)


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