数字(その3)
「へい、塩ラーメン二丁お待ち」
先輩の話を中断するように差し出されるラーメン。頼んだのはこっちなので断るわけにもいかない。それに、話がちょうどタイミングよく切り上がったところだったので、一時中断してふたりでラーメンを頂くことにした。
先輩は無言でもやしをかじっている。僕は隣の先輩を気にしながら、ほうれん草を注意深くよけていく。ほうれん草は苦手だ。ポパイとか未だに信じられない。なんでこんなものを食べてあんなにパワーアップするんだろう。
ずずーっ、ずずーっ。
ノイズのようなテレビの音が響く小さなラーメン屋の中、ふたりが面をすする音だけが響く。店の親父は無言で文庫本を読んでいる。マルクスの資本論。あんたなんでラーメン屋やってんだよ。
と、先輩がいきなり口を開く。
「今日は妹の命日だったんだ。だからさ、ちょっと頑張ってみたんだよ。別に意味なんかないけどさ」
「先輩」
自嘲気味に笑う先輩を見ていられなくて、思わず口を挟む。発言の内容なんか考えていない。思いついたまま、適当に言葉を並べてゆく。
「それ、先輩のせいじゃないすよ。先輩は別に悪くない。そんなん僕だって耐えられませんもん。誰だって逃げ出すっすよ」
「じゃあ笠原、もしあたしが同じような状態になったら、それでもおまえは逃げるか?」
「それは」
……わからない。
一瞬言葉に詰まる僕を見て、先輩は……
あろうことか爆笑しやがった。
「なーんてな! 冗談だよ冗談。なんでおまえがあたしなんぞを見舞いに来なくちゃならんのさ。ったく、おまえは本当にチョロいな。だから童貞なんだよバーカ」
「うっせーな! なんだ真剣な話かと思って聞いてりゃ……」
「おーよしよし。それでこそあたしの可愛い笠原だ」
先輩はにんまり笑うと、ラーメンの続きにとりかかった。僕はやり場のない感情を抱えつつ、仕方がないので同じようにラーメンを食べる。口に残っていた試作品1366号の苦味を、塩ラーメンの香ばしい香りが消してゆく。
美味い。
「あのさ、笠原」
「ん? なんすか?」
「これまで、バイトありがとな」
まるで、もうバイトは結構だ、とでも言いたげな響き。
「大したお礼もできなかったけどさ、おまえにゃほんとに感謝してるんだよ。あんな得体の知れないもん飲んでくれる人間なんて貴重だったからな。昔はあたしが自分でやってたからわかるけどさ、苦いじゃんアレ。人間の飲むもんじゃないじゃん」
わかっていながら飲ませてたんかい。
「でも毎回毎回ごきゅごきゅと馬鹿みたいに飲み干してくれてさ。頭のネジ十個や二十個飛んでんじゃねーのかコイツとか思ったけど、それってやっぱりすげえよな。あたしにゃ無理。尊敬するね。だからどうせ最後だし、尊敬の念を込めてここは奢らせてくれよ、やっぱり」
「なんだ、諦めるんすか先輩? あの千賀マリ子ともあろうもんがギブするんすか」
先輩の笑顔が少しだけ止まる。ラーメンを引き上げた手も止まる。
「っつーかですね、それはそれで困るんですよ実際問題。僕はあの五千円がなきゃ餓死するんです。一方的にやめるとか言われても納得できないっすよ。どうか可愛い後輩のために、続けてくれないもんですかねえ」
「…………」
押し黙って、僕をじっと見つめるマリ子先輩。流石にちょっと照れ臭い。誤魔化すためにラーメンを口に運んだ瞬間、
「笠原、あたしはおまえに惚れた」
ぶふうっふぁっごふぉっがっけっほっほっほっ!
全力でラーメンを噴いてしまった。先輩はそれを楽にかわすと、再び大爆笑する。
「ぶっははははははは! チョロい! チョロい! 小学生並にチョロい! 漫画みたいに麺噴き出したぞコイツ! 笠原、おまえマジで最高、ぎゃははははは」
「こっ、こっ……」
「いやーここまでからかい甲斐があると崇め称えたくなるね。あたしゃいい後輩を持ったもんだ。いや、なんだよその顔は。本気だと思ったか? まぁ今のは忘れな、あたしもおまえもそんなガラじゃないじゃん。あーなんだホレ、ほうれん草も食いなってば。残すなよガキじゃあるまいし。うら」
無理矢理ほうれん草を僕の口に放り込む先輩。もう無茶苦茶だ。一度口に入れたものを故意に吐き出すのも躊躇われて、仕方がないので黙って飲み込む。不味いものを喉に流し込む作業には慣れている。そういう意味では先輩に感謝……できるか!
「もうなんていうか、ちょっと泣きたい気分っすよ……」
「おー泣け泣け。勝手に泣いてろ。あたしは止めないから安心して泣け。きっとそんなおまえを包み込んでくれる素敵な恋人が三十年後くらいにあら……わ……れ……」
突然言葉が止まる。なんだ?
先輩は、無表情で僕を凝視していた。顔ではない。もっと下の、そう、ちょうど胸のあたりを。
「みどり……」
「え?」
「ちょ、ちょっ、おまえ、もっかい、ほうれん草食え」
強引に口をこじ開けられ、ほうれん草を叩き込まれる。なんなんだ一体。抗うこともできずに飲み込むと、先輩の表情が今度ははっきりと驚きに包まれた。
「あ、そんな、うそ」
「先輩、まさか」
まさかどころか決まっている。胸を見ながら緑と言ったら、答えはひとつしかない。きっと胃の中で反応を起こしたのだ。試作品1366号と……ほうれん草が。
と、先輩の顔が急に歪んだ。
「うっ、あっ、みどりっ、出たっ、ひぐっ、出た、みどり……」
「先輩?」
「あふ、あふっ、出た、出た、出たよぉ、うあ、うああぁ、ひっ、」
出た、出たとうわ言のように繰り返しながら先輩はいきなりしゃっくり上げ始めた。あまりにも突然のことに僕はどうしていいものか一瞬迷ったが……
さっきの仕返しとばかり、ぼろぼろと涙をこぼす先輩を抱きしめてみた。
「かさ、はら」
「良かったっすよ。これで当分食い扶持が稼げそうで」
「おまっ、うっ、ああ」
「とゆーことで、ここは僕が奢ります。いいすね先輩?」
先輩は、まるで三十年ぶりに恋人に会えた時のような表情を浮かべてから……
ぽろぽろと大粒の涙を膨らませて、僕の胸の中で大声で泣き始めたのだった。
(031 [ダメージ] 数字/終)
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