残香
私がまだ中学生だった頃の話だ。
夜の学校に忍び込むのはそれが初めてだったので、あらかじめ鍵を外しておいた窓を音を立てないようにそっと開けた時は、まるで心臓が飛び出さんばかりだった。窓の下で脱いだ靴を抱え、靴下で廊下に着地しながら、目だけはまるで怯える子猫のように落ち着きなく左右を気にかけていた。
漫画を読んでも映画を観ても本を読んでも、夜の学校は恐ろしく、神秘的な場所として描かれていた。ならば実際にはどうなのだろうと確かめたくなったのだ。異世界ともあの世とも違って、夜の学校はどこにでもあり、私のすぐ横にもあり、確かめるのは簡単だった。もっとも、毎日野球部で日が暮れるまで外にいる私が目立たずにもう一度校舎内に入るには、目の前に警備員室のある玄関口を避けなくてはならなかったのだが。
首尾良く誰にも気付かれずに校内に潜入することに成功した私は、とりあえず近場の男子トイレに逃げ込み、それから今後の行動を考えることにした。夜の学校に入ることだけが目的で、その先は何も考えていなかった。生物室、職員室、音樂室、行きたい場所はいろいろあったが、私はひとまず自分の教室を目指すことにした。たまらなくワクワクして、これだけで私は今回の英断を心から満足していた。
が、教室に近付いた時、私は異変に気付いた。他の教室の扉は全て閉ざされていたのに、自分の教室の扉だけが少し開いていたのだ。しかし明かりはついていない。私はちょっとしたスパイのような気分で、音を立てないようにそっと扉に近付き、隙間から真っ暗な教室を覗いた。
窓の外の照明が真横から青白い光を投げかける教室の中、中央付近の机に座っている誰かのシルエットが見えた。私は驚いてその場に尻餅をついてしまったが、そのシルエットがどうしても気になって、もう一度だけ、恐る恐る中の様子を伺ってみた。確かに誰かが座っている。髪の長さからいって女性のようだ。背丈は自分とさして変わらない。影は机に頭を乗せるようにもたれかかり、身動きひとつしない。やがて暗闇に目が慣れてくるにつれ、彼女の正体がわかってきた。彼女は私と同じクラスのある少女だった。
彼女は数ヶ月前に都会から転校してきたばかりで、いつも少し沈みがちな眼をした、長く綺麗な黒髪の少女だった。成績は優秀でひどく大人しい子だったが、女子の中ではいつも仲間外れにされていた。他のクラスメイトの女子が、彼女の何を気に入らなかったのかは未だにわからない。田舎の子供は相手が都会生まれというだけで何らかの劣等感を抱くことが多かったから、そのせいだったのかもしれない。
彼女はいつも一人ぼっちで、授業中も休み時間も、昼休みも放課後もずっと単独行動を続けていたように思う。彼女が誰かと親しげに喋っているところを見たことがなかった。その代わり彼女の弾くピアノの音は野球部の練習中いつも聞こえていた。友達もなく、暇を持て余していた彼女は音楽教諭に鍵を借り、音樂室のピアノをよく弾いていた。耳を疑うほど上手な演奏というわけではなかったが、吹奏楽部もない小さな学校で、授業以外で聴くピアノの音はとても新鮮で、私などは毎日密かに楽しみにしていた。彼女の弾いていた曲の名前は今でもわからないが、旋律だけならまだ忘れていない。明るく、なのにどこか悲しげな旋律だった。
その彼女が誰もいない夜の教室の中にいて、机に座ってじっとしているのだった。額を机に押し付け、瞳は静かに閉じている。その顔にはどことなく幸せそうな表情が浮かんでいた。
そして私はその時、彼女が今座っている机が彼女の机ではないことに気付いた。彼女の座席は教室の隅だ。その机は昼間、私の親友の少年が座っている机だった。彼はさっきまで私と一緒に部活の練習に精を出し、一人で先に帰っていた。その彼の机に、彼女がじんわり幸せをかみしめるような顔で座っている。その意味に気付き、私は愕然とした。彼女からそんな素振りを感じたことは一度もなかったからだ。
彼女は自分の気持ちが誰かに知られたくなかったのだろうか。それともただ勇気がなかっただけなのだろうか。自分の境遇が原因で彼に塁が及ぶことを恐れたのかもしれない。理由はわからないが、普段押し殺して誰にも悟らせない感情を、彼女は誰もいない夜の教室でしか開放できなかったのだ。
どれくらい経ったのかわからない。彼女がゆっくり目を開けるのを見て、私は慌てて扉の側を離れ、廊下の柱の陰に隠れた。微かな足音とともに、教室の扉が動く音がした。そして足音は私の反対方向に向けて次第に遠ざかっていった。
きっとこれまでも同じことを続けてきたに違いない。ピアノの練習で遅くまで残って、誰もいない教室に忍び込み、彼の机でしばしの安らぎを得るのが孤独な彼女の日課だったのだろう。私は彼女の気配が消えたのを確認してから、慎重にドアを開けて教室に入った。暗い教室の中、さっきまで彼女が座っていた机に向かう。椅子にはまだ彼女の体温が残っていた。そして、何かとても甘い香りが微かに漂っているのを感じた。教室では嗅いだことのない匂いだったが、これは彼女の香水の匂いであることは疑いなかった。わざわざ香水をつけてから彼の机に座っていたのだ。私はもう一度息を吸い込んだ。甘く、そして切ない香りが胸一杯に膨らんで、なんだか締め付けられるような思いに駆られた気がした。
あれから彼女はすぐに転校してしまった。最初からそういう事情だったらしい。その後の彼女を私は知らない。そして親友の彼はというと、あれからずいぶん経った今でも私とは親しい。しばらく前に可愛い嫁さんを貰い、今では二児の父として毎日楽しそうに暮らしている。酒の席では未だ独身の私に縁談をもちかけてくることもしばしばだ。そのたびに私は嫌がるのだが、鈍感な彼は頻繁に、誰か気になる相手はいるのか、いないなら誰か紹介してやろうかと繰り返し尋ねてくる。そこで私は、今度彼と一緒に酒を飲むことがあったら、中学時代、朝の机に甘く切ない微かな香りが残っていたことがないか、逆に尋ね返してやろうと思う。
(051 [机] 残香/終)
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