思い出せない人
たとえば、川底に角ばった小さな箱が沈んでいて、
ほんの少しだけ静かな流れをかき乱している、
それが今のぼくなのだと思う。
誰もいない教室の窓の縁に座って、
くだらないことをきみに向かって喋っている。
きみは大きな口を開けて笑って、
ぼくもきみの大げさな動作につられて笑う。
背中に感じる夕方の斜陽が暖かい。
でも、きみの顔だけはぼやけて見えるんだ。
すべては流れに呑まれて。
それがたとえ大切な写真の入った宝箱であっても。
顔のないきみと、昼休みの渡り廊下を歩く。
誰もいない場所に行きたいと言い出したのはどちらだっただろう。
校舎を賑わす喧騒はどこまで行っても離れない。
それでもいいときみは言う。
いちばん大事なところだけ、誰にも見られなければいいと。
みんなのいる校舎の隅の、誰も知らない小さな陰で、
隠れるようにして、ぼくは顔のないきみを抱き締める。
どんな表情なのかは見えない。
暗がりで胸に熱いものを感じて、
ぼくはその瞬間、きみの本当の気持ちを知る。
川底に沈んだきみの顔を知りたい。
きみはぼくの顔を覚えているだろうか。
この川の流れはあまりにも速すぎて、それが淋しい。
放課後のトラックは少し風が強かった。
乱れる髪を押さえて、きみはぼくの横で笑う。
ぼくの足元には、消えそうなスタートライン。
このラインの先に光が見えた気がした。
きみとぼくとを遮る境界線。
走るごとに、風に乗って届くきみの声が小さくなる。
そして、きみとは違う声が聞こえてきた。
今もぼくは、きみと過ごしたあの日々を、
何度も何度も、飽きもせず繰り返している。
顔のない写真だけが増えてゆく。
きみはまだ、ぼくのことを思い出せない。
***
だから、誰もいない校舎できみの姿を見かけた時、
ぼくは本当に驚いたんだ。
まさかもう一度きみがここに来てくれるなんて……。
あの日のかけらを拾い上げるように、きみはゆっくり歩く。
きみの顔はまだ見えないけど、
ぼくと同じ顔をしていることはわかる。
揺れるカーテン。
校門前の並木。
誰かの机。
渡り廊下。
横断歩道。
石灰のライン。
探しものはきっとすぐそこにある。
一人では見つけられないものでも、
誰も見つけられなかったものでも。
あの茜色のスタートラインで、
きみはぼくに何を言おうとしたのだろう。
それと同じかもしれない言葉が、
透き通った気配をまとって、ぼくの耳を抜ける。
全てのかけらを拾ったきみは呆然と立ち尽くし、
最後の場所でするべきことに気付く。
もうひとつ、取り戻さなくてはならないもの。
あの日の暗がりできみが隠したもの。
やがてきみは川底から古い箱を拾い上げ、
中に溢れるほど詰まった記憶を、思い出した。
ああ。
これで、やっと……
ごぼりと小さな音が響く。
川の流れは再び元の姿に戻り、
滑らかな流れがどこまでも続いてゆく。
きみの手には、ひらけた宝箱と鋭い光。
風に舞い上がる大切な写真の中で、
ぼくときみは、満面の笑顔で笑っていた。
(054 [記憶] 思い出せない人/終)
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