シーマ・フェリックの破戒(その2)


それからシーマは以前の性格からは考えられないほど大人しくなりました。
わがままを一切言わず、素直に人の言うことは聞き、自ら率先して人のために動く、そんな女の子に。
もちろん時には辛いこともあって、以前のようにわめき散らして怒りたくなるような時もありましたが、
ミユウならこういう時も文句を言わずに微笑むだろうと思うと、何でも我慢できました。
ミユウがやりたかったこと……そしてもうできないことを、すべて自分が代わりに叶えてあげる。
これがシーマ・フェリックの生きる理由になったのです。

改心したシーマはあっというまに評判の娘になり、
大富豪のお嬢様に相応しい優秀で貞淑な美少女として、街中から好かれるようになりました。
しかし、それらはすべてシーマではなく、シーマの中にいるミユウに向けられた評価でしかない。
そうシーマは思って慢心もせずひたすら勉強と信仰を続け、
そしてとうとう十五の春に、修道院に入ってシスター見習いとして修業の日々を送り始めました。

我々人間は神様の子供であって、神様は無条件に誰もを愛してくださっている。
そして子供たる我々人間は、神聖で偉大な神様を常に崇め敬うべきである。
私達シスターは、神様と人間の間の架け橋となって、神様への愛そのものとなって生きなければならない。
決して自らの欲に溺れたり、特定の誰かだけを深く愛してはならない。それが、「愛の体現者」としての使命である。
これが修道院に入って最初にシーマが言われた言葉でした。

修道院での厳しい戒律の中でも、シーマはこれまで通り、何の不平も言わずに日々を過ごしました。
それどころか、これがミユウの望んでいた生活であると思うと、かえって嬉しくなって仕方がありませんでした。
朝早い起床、男顔負けの重労働、延々と続く神学の猛勉強、そして自らの欲望を完全に禁じられた生活……。
生半可な覚悟ではとても耐えられないような辛い暮らしでしたが、シーマはその間、ずっと楽しそうでした。
ここではミユウのやりたかったこと、そして今自分のすべきことが何もかも肯定されているのです。
ミユウの身代わりとして生きるシーマにとって、ここはまさに求めていた想像の世界そのものでした。
普段は厳しい修道院の教育係たちも、理想のシスターのような生活を苦もなく送るシーマを見るにつけ、
彼女こそ真に神に仕えるべくして生まれた少女であると思って、満足げに目を細めるのでした。

そんな日々の中、シーマは毎日のように聖書を広げ、神の子の最期のシーンを繰り返し読み続けました。
人々に蔑まれながらなお愛を説き、自らを陥れた愚かな人々に代わり、その罪を全て背負って果てた存在。
彼は処刑の瞬間、一体どれほどの苦痛を受けたのでしょうか。どれほどの恐怖を感じたのでしょうか。
しかし、彼はとうとう死を迎えるまで呪いの言葉ひとつ吐かずに、人々を案じながら天に召されました。
最期まで自分達を愛してくれた男を、自らの手で殺してしまった愚かな人々。
自ら殺してしまったその男の魂を敬い称えるしか、彼らに残された道は最早なかったのです。
シーマには痛いほどその気持ちがわかりました。
そして彼らがやったように、自分もせめて、失われてしまったもののために祈ろうと思うのでした。

彼女のように。
彼女のように隣人を愛そう。
強烈な憧憬の衝動がシーマの心を包み込みます。
もう汚れてしまったこの手だけど、
せめて、あの時の彼女の姿に少しでも近付けるように。

しかし、その平穏で満ち足りた生活はそれほど長くは続きませんでした。

シーマが十八になった年の夏のある日、一通の手紙が修道院に届けられました。
それはシーマの父親からで、お前を嫁に出すことになった、従ってすぐ戻ってこいと書かれていました。
シスターは神に全てを捧げた人間であり、
信仰の道に入るということは、いわば神様と結婚するということです。
生身の男とひとつになるなんてもってのほか。
それ以前、男と肌を重ね合わせることからして決して許されない存在です。
しかし、フェリック家のもつ強大な権力の前では、そんなシーマの信仰心などちっぽけな紙くずのようなもの。
もし言うことを聞かなければ修道院自体がどうなるかわからないだろうという手紙の末尾の文章を読み、
シーマは仕方がなく、修道院を出て実家に戻りました。

家に帰ると、本人の知らないところで縁談はほとんどまとまりかけていました。
なんでも隣の街の同じくらいの大富豪の、跡取りとなるひとり息子が相手のようです。
いくら相手の家も強い権力を持っているとはいえ、娘の意向を無視して、見たこともない相手と結婚しろとは。
裏の事情がこれ以上ないほど見え透いていましたが、シーマにはそれを拒否することはできません。
内心憤りを隠せないまま、シーマはとりあえず問題のひとり息子に会ってみました。

相手のひとり息子はセトという、彫りの深い顔立ちの長身の青年でした。
「シーマさんには悪いが、この話、断ろうかと思ってるんだ」
相手に罪はなかったとしても、シスターという存在にとって望まぬ結婚相手とは即ち信仰の敵である。
そう思って身構えていたシーマは、彼のそんな言葉にあっけにとられてしまいました。
「どうしてですの。他によろしい方でもいらっしゃるのですか」
「違う違う、そうじゃない。僕だってできればシーマさんと一緒になりたいよ。
 ただ、シーマさんはシスターなんだろう? ここで僕と結婚したらいろいろとマズいんじゃないのかい」
金持ちのひとり息子という経歴からは想像もつかないような、相手のことを考えた優しい言葉。
完全に意表を突かれて、シーマははい、とかええ、まぁ、とか、気の抜けた返事しかできません。
「ということでさ。ふたりでどうにか、この政略結婚を回避する策を考えよう」
セトは内緒話のように声を潜めながら、にこにこと悪戯っぽく笑いました。

それからふたりはちょくちょく会うようになり、
どうにか親の都合で決まった結婚話を破談にすべく、いろいろと知恵を出し合いました。
「いっそふたりともどこかに逃げるという手は……」
「だめですわ。それだと何の解決策にもなっていませんよ」
「要するに、シーマさんのフェリック家と僕のサーウィン家が、
 他の誰の目にもわかる形でしっかりと結びついたことを周囲に宣伝できれば良いんだけれど……」
「この前も言いましたけど、やっぱりただの業務提携じゃいけないのでしょうか」
「今回のことを機に、最終的には双方合わせてひとつの無敵の巨大企業にするのが父達の狙いだからなあ。
 業務提携程度の結びつきだと、今後その方向に持っていくのはちょっと難しいかな。
 西の方で急成長しているガーサ家を今のうちに叩いておきたいという気持ちも多分にあるのだろうし。
 そういう意味では、家の合併という大計画を進める上で跡取り同士の結婚というのは絶好の機会だからな。
 そこまで発展させるチャンスは滅多にないから、こりゃ父も焦るわけだ」
「自分の親ながら、なげかわしいことです。結婚という神聖な儀式を一体何だと思っていらっしゃるのかしら」
「噂に聞くよりずっと手厳しいなシーマさんは……もっと大人しいお嬢さんを想像してたよ」
「……すいません」
「いや、そっちの方が生き生きしててずっと素敵だよ」
期限が刻一刻と迫る中、どれだけ回を重ねても、肝心の話し合いはなかなか進みません。
しかし、シーマは不思議にそれほど嫌な気持ちにはなりませんでした。
それどころか、セトに会うのが日増しに楽しみになってゆくのでした。
セトは自分を街で評判の敬虔なシスターとしてではなく、ひとりの生身の人間として見ています。
それがなぜかとても心地良くて仕方がなかったのです。

シーマは、自分がセトに惹かれ始めているのかもしれないと思いました。
これまで恋というものをしてこなかったシーマにはいまいち自信がありませんでしたが、
もしこの気持ちに名前をつけるとしたなら、恋という言葉が一番ぴったり来るような気がしたのです。
ですがシーマの脳裏に、修道院で聞いた言葉が蘇ります。

「決して自らの欲に溺れたり、特定の誰かだけを深く愛してはならない」

理想の信仰者になったであろうミユウなら、異性の存在などにその強固な信仰心を惑わされたりしない。
そして自分はそんなミユウの意思を体現するために生きているのです。
だからこれは恋ではない、信頼できるパートナーに対する尊敬の念であると心の中で繰り返し、
シーマは最初に決めた通り、なんとかセトとの結婚を回避しようとあれこれ思索を巡らせました。
しかしその間中、なぜか心のどこかがずきずきと疼いて仕方がありませんでした。

ですが、式が二週間後に迫ったある日、とうとう父親達にシーマ達の企みはばれてしまいました。
怒った父親達は予定を大幅に繰り上げて、問答無用にシーマとセトを結婚させました。
シーマにもセトにも、表立って親達に抵抗できるだけの力はありません。
ふたりは渋々ながら、良家の跡取りとして厳粛な表情で結婚式に臨みました。
これで事実上、シーマはシスターでありながらセトの妻になってしまったのです。

その夜。
シーマはシスターとしてあってはならない事態に涙を貯めていました。
自分はミユウの意思を継いで、神の道に殉ずるシスターになるはずだったのに。
その夢があっけなく絶たれてしまったのです。
おまけに、これから夫と称する男に抱かれなくてはなりません。
これまで優しかったセトでも、こうなってしまった以上、自分の身体を求めてくるのは当然です。
だって、夫婦なのですから。
それが口惜しくて、悔しくて、シーマは誰もいない部屋でぽろぽろと涙をこぼしました。

しかし、セトはシーマが思っている以上に優しくて、誠実な男でした。
「こうなってしまったことは遺憾に思う。僕には父達を止められなかった。
 本当にすまなかった」
覚悟を決めて寝室にやって来たシーマを待っていたのは、セトのそんな言葉でした。
セトは夜着に身を包んだまま、シーマに向かって深々と頭を下げました。
シーマは混乱しました。こうなるとは思ってもみなかったのです。
「だが、こんな僕達にもまだ最後の抵抗の手段は残されている。
 今も、そしてこれからも、僕は決して君に手を出さない。
 これなら、神様を裏切ったことにはならないはずだ。違うかい?」
この人は、何を言っているのだろう?
シーマはぼんやりとした表情のまま、暗がりのセトの表情を見つめました。
「確かに君は僕の妻になってしまった。
 だがそれは社会的立場上での話だ。信仰の本質には影響しない。
 君が潔癖な魂を持ち続ける限り、例えどんな立場にいたって、君は立派なシスターだ。
 それはすぐ近くで君を見続けてきた僕が保障する。
 君はこれまで通り、神様への信仰を日々の糧として暮らしてゆけば良い」
「……あなたは、私のことが嫌いなのですか?」
シーマがやっとのことで絞り出した問いに、セトは首を横に振りました。
「違う。逆だよ。僕は君のことが大好きだ。大好きになってしまった。
 ……そして、大好きだからこそ、君を傷つけたくないんだ」
ぽろり。
シーマの美しい瞳から、もう出ないと思っていた涙が一粒、頬を流れてゆきました。
「……ありがとうございます。ありがとうございます……」
暗がりの中、シーマはうなだれて、いつまでも泣き崩れていました。
これでミユウの夢は守れる。そう思った瞬間に、張り詰めていた糸が切れてしまったのです。
セトは静かに微笑みながら、そんなシーマの姿を、いつまでも暖かく見守っていました。

しかし、皮肉にもこの瞬間、同時にシーマはとうとうはっきりと確信してしまったのでした。
自分は、このセトという男のことをこれ以上ないほどに愛しているのだということを。
……神様とセトとどちらかを選べと言われた時は、揺るぎないはずだった信仰心に、迷いが生じてしまうほどに。

つづく


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