数字(その1)


マリ子先輩という人は、変な人だ。
「おい笠原。これ飲んでみ」
 ずいっと押しつけられたのは、牛乳瓶に入った紫色の液体。
「……何すかこれ」
「試作品1366号」
 それで全て説明が済んだかのように胸を張って答えるマリ子先輩。だからといって、僕は納得できるわけがない。
「そうじゃなくて、僕は原料を訊いているのであって……」
「安心しな。たぶん毒じゃないから」
「毒であってたまるか! っつーか、この色は」
「それ? ヨウ素……いやムラサキキャベツだから無害無害。大丈夫よん」
「今あんた何て言いかけた!」
 ヨウ素って……あれか? デンプン質に反応して紫色になるアレか?
 そんなもん飲んで平気なのか? 人間という生き物は。
 瓶をまじまじと見つめる。なんだか濁っていて良く見えないが、固形物が少し入っているようだ。
「……怖えェェ」
「つべこべ言わずに、さっさと飲む。男らしくないぞ」
 ぐずぐずしている僕に、マリ子先輩の一喝。どうせ逆らえないなら、覚悟を決めるしかない。
 ごくっ、
「ぶっはあああ!」
 あまりの苦さに吹き出した。何だこれ! 人間の飲み物じゃねーよ!
「もったいない。適量を量ってあるんだからこぼすなよな」
「苦えよ! なんすかこの気持ち悪い味は!」
「良薬口に苦しってゆーじゃん。あんまりちんたらしてるとバイト代減らすぞ」
 うっ……それは困る。
 こちとら貧乏学生、ここ一週間ほどカップ麺以上のランクの物は食べていない。本来そこに使われるはずだった金は、すっかり本代に消え果てている。マリ子先輩からのお金がなくては、すぐに餓死してしまうことが確実なのだった。
 それを知っているのだろう、マリ子先輩は財布から千円札を五枚出し、扇子状に広げて僕の頬をぴたぴたと叩く。
「ほれほれ。はーやーくーはーやーくー」
「くっ……」
 いつか復讐してやる、などと絶望的な計画を心に誓いながら、牛乳瓶を持ち上げる。
 いくぞ。
 目を閉じ、瓶の口に唇をつける。そのまま傾け、口の中に流し込んだ。味覚のことは忘れる。一時的に舌を麻痺させるイメージ。何も考えるな!
 ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ。
「おおー、凄い凄い」
 次第に角度をつけていって、垂直に近い状態までもっていく。その頃には瓶の中身はほとんどなくなっていた。
「……ぷはあ!」
 すべて飲み干し、どうだ! と勝ち誇った顔でマリ子先輩を見る。
 マリ子先輩は一メートルほど後退し、僕の全身をじっと観察していた。まるでビーカーの中の反応でも伺っているかのように。
 そのまま十秒、二十秒、三十秒。
「……またしてもダメか」
 やがてがっくりと肩を落とし、マリ子先輩はため息をついた。もちろん、何がダメだったのかは僕にはわからない。
「今回はちょっと手ごたえ感じたんだけどなー」
「……なんか知らんが失敗したんすね、僕の体の中で得体の知れない何かが」
 何が失敗したのか。考えたくもない。
 マリ子先輩は少しうつむき加減に立ち尽くしていたが、すぐに「いつものことだ」と呟いて、僕の手に先の五千円をしっかと握らせた。
「ほいよ。バイト代」
「……どうも」
 正直なところ、失敗したのにお金をもらうというのはちょっと気がひけなくもない。このバイトをやり始めた頃、マリ子先輩にそう打ち明けたことがある。だが、これは労働に対する立派な報酬であり、僕には受け取る義務がある。だいたい、無償でやってもらうなんて、あたし自身が気持ち悪いんだ。そう先輩本人に言い聞かせられて、それからは口ごたえせず受け取ることにしている。
「さて、この線もダメか。どうしたもんかな……」
 もうすっかり僕の存在など忘れてしまったかのように、ひとりごとを呟き始める先輩。気のせいか、その背中はひどく疲れ果てているようにも見えた。
 千賀マリ子、二十六歳。夢はポーションを作ること。この研究室に配属されて半年、変な先輩をもってしまったものだ。

「仕方がない、今日は帰るか。ほれ、部屋に鍵かけちゃうから笠原も支度しな」
 元気のない声で、マリ子先輩が僕を促す。『失敗』はいつものことなのだが、なぜか今日はいつにも増して落ち込んでいる。
「細かい忘れもんなんかいいから。どうせ明日もここに来るんだろ? 置いてけ置いてけ」
「あのさ、先輩」
「ん?」
「どうしたんです。大丈夫すか? いつもの先輩らしくないすよ」
 いつもの先輩なら、失敗しようが何だろうがはははと笑い飛ばし、たまにはラーメンなんかを奢ってくれるくらい元気に溢れているというのに。今日に限っては、妙にショックを受けている。
「臨時収入も入ったし、今日は僕が奢るっすよ? いつも奢ってもらってるし」
「とゆーかそれ、あたしの金じゃん」
「もう僕のもんすよ」
「それもそうだ」
 ははは。力のない笑い。どうしたんだ先輩。今日は本当におかしいぞ。豪放磊落が服着て歩いているような人が、こんな笑い方をするなんて。
「いや、マジで大丈夫すか?」
「……なんだ、心配してくれるのかね可愛い後輩の笠原くんよ」
 おどけてはいるが、目が笑っていない。
「心配すよ。心配しちゃいけないんすか?」
「や、そんなマジになんないでよ」
 少しだけ逃げるような素振り。だがすぐに動きを止め、ぽつりと呟いた。
「今日はね、ちょっと特別だったんだな」
「特別?」
 質問を投げかけるが、返事は返ってこない。何かを迷っているようだ。どうかしたんすか、と口を開きかけたところで、先輩はくるっと後ろを向いて言った。
「……そうだな、半年も経つもんな。いいか……な」
「先輩?」
「ときに笠原。おまえ、口は堅い方か?」
「え?」
 まぁ、お喋りではないが。
「それなりには……」
「誰にも言うなよ」
 またくるっと回って、先輩は小さく微笑んだ。
「あたしね、人の痛みが見えるんだ」

 痛みが見える。
 意味が掴めない。どういうことだ?
「……言ってる意味がわかんないんすけど」
「痛みって言うのかな……ところでおまえ、ゲームやったことあるよな。RPG」
「はあ」
「あれでさ。戦闘で、ざくっとモンスター斬るだろ。そしたら、ダメージ表示が出てくるじゃん」
 思い浮かべる。敵に接近して、剣で斬る。敵の身体から数字が飛び出す。
「あんな感じ。白い数字が飛び出すのが見えるんだ」
「……冗談ですよね」
「冗談なもんか」
 妙に力の篭った言葉に、僕は黙らざるを得ない。
「誰かが怪我したり、病気やなんやで弱るたびに、数字が飛び出すんだよね。胸のあたりから、ぽーんって。
白い数字が。子供の頃はなんだかわからなかったけどね。でも、幼稚園くらいの頃にはだいたい理解してた。
この数字は視覚化した生命エネルギーなんだなって」
 そう語る先輩の目はどこか虚ろだった。妄想を語っているのとは違う、どこか現実味のある疲労感を漂わせて。
 荒唐無稽な話だが、その話にはどこか説得力があった。
 そもそも先輩自体が、荒唐無稽なのだから。今更信じないのも馬鹿げた話だ。
「じゃあ、薬飲んだ僕の身体をじっと見つめていたのは……」
「勘違いするなよ。あれは本当に薬のつもりだったんだ。可愛い後輩を誰が殺そうとするか」
 私が見たいのは白い数字じゃなくて、緑色の数字なんだ。
そう先輩は言う。
「ゲームやってんだろ? 緑色は回復って相場が決まってるじゃないか」
「緑色の数字は、見たことあるんすか」
「……ない。ないけど、信じちゃダメか?」
 沈黙。
 僕もマリ子先輩も。部屋の中のものは、何ひとつ微動だにしない。
 信じちゃダメか?
 初めて聞いた気がする、先輩の弱音。たった半年のつきあいだが、その間に知った先輩像からはかけ離れた言葉。
 卑怯だ。こんなの、疑えという方が無理だ。
「別にダメだなんて言ってないじゃないすか。信じてくださいよ、どうぞ。僕も信じさせてもらいますからさ」
「笠原……」
「ひとつだけ。今日は何の日なんです?」
 先輩は黙ったまま、視線を部屋中に泳がせた。何かすがるものを探しているようだった。だが、何もないことをすぐに悟ったのだろう、僕に視線が戻ってきた。
「……続きは、ラーメン屋でな」

つづく


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