チョコレートの私(その2)


 バレンタインの前日の深夜、自らの作り上げたチョコレートを背負い、マルナはコンチャック村を旅立ちました。クイクイ村まではかなりの距離があるので、これくらい時間を取っておかないと間に合いません。普通に歩いていくだけなら数時間ほど歩けば十分辿り着く距離ですが、前日に試しに担いでみたところ、予想していた以上にチョコレートが重かったので、もっともっと時間がかかりそうなことに気付いたのです。

 一歩踏みしめるごとに、ずっしりとした重量感がマルナの足を襲います。マルナは運動不足ではありませんが、かといって別に鍛えているというわけでもなかったので、一時間も歩く頃にはすっかり筋肉痛になってしまいました。しかし無理でもなんでもこの道程を踏破しなければ、サワデスのもとにチョコレートを届けることはできません。ところどころで少しずつ休憩しながら、マルナは普通の乙女のような不屈の精神でクイクイ村に向けて震える足を動かしていきました。

 しかし、マルナは普通の女の子ですから、無理をするとその分だけしっぺ返しを喰らってしまいます。ほんの少しだけ休憩するつもりで木陰に横になったところ、そのままぐっすり眠り込んでしまったのでした。目が覚めた時には、あたりはすっかり明るくなっていました。太陽が高く昇り、二月にしては暖かいほんのり陽気が野山を照らしているのを見て、マルナは真っ青になってしまいました。なんと、あれだけ苦労して作り上げたチョコレートがすっかり温まっているではありませんか!

 もう疲れただの休憩だのと甘いことは言っていられません。無茶をしてでもペースを上げなければ、サワデスに渡す前にチョコレートが崩壊してしまいます。マルナは気合いを入れるために自分の頬を張って精神を注入すると、クイクイ村に向けて猛ダッシュを開始しました。乳酸のたまった足の筋肉が悲鳴を上げましたが、構わずマルナは走り続けます。大声で「さわやかサワデス」を絶叫すると、少しだけ疲労を誤魔化すことができました。

 そしてそれからほどなくして、ついにマルナはクイクイ村に辿り着きました。走りながら村の入り口の門が見えた時には、感動のあまり思わずマルナは泣いてしまいましたが、しかしこれで終わりではありません。村に着いたら、次は早くサワデスを探さなくてはいけません。背中のチョコレートはすでに表面がじんわりと柔らかくなってきつつあります。

 マルナは手近にいた村人を捕まえると、サワデスの家がどこにあるのかを尋ねました。村人はマルナの背中に見える謎の物体に恐怖しつつ、この道をまっすぐ行って、坂道を登りきった一番奥にあるのがサワデスの家だよと教えてくれました。相手の言葉が終わるか終わらないかのうちに、マルナはお礼を言ってすぐに再び駆け出しました。

 よりにもよってサワデスの家は村の一番奥で、その上坂道のてっぺんにありましたが、マルナの恋心はそんなことではくじけません。生まれたての小鹿のようにガクガク震える足を殴りつけておとなしくさせながら、マルナは目を丸くする村人たちのど真ん中を突っ走って猛然と坂道に襲いかかりました。

 坂道を登りながら、マルナは背中に照り付ける太陽の光が気が気ではありませんでした。まだ二月ですからそこまで暖かくはありませんが、この日は非常に天気が良く、そしてそれ以上に、全力で動き回るマルナ自身の体温が、じわじわチョコレートを溶かし続けているのです。すでにチョコレートの指先はくっついて子供の手袋みたいな形になっています。もはや一刻の猶予もありません。マルナはすでに歌を歌うこともままならないほど激しい呼吸で、キツい坂道を細かく刻むように登り詰めてゆきました。

 ですが、そこまで苦労してやっとのことで辿り着いたサワデスの家は、どういうわけか、しんと静まり返っていました。すがるようにしてドアをノックしても、誰一人として出てきません。どうやらサワデスやその家族はみんな揃って外出しているようでした。マルナは思ってもみなかった事態に、呆然となってその場にへたり込んでしまいました。

 と、そこに、隣の家から灰色のスーツを着た男が出てきました。不審者丸出しのマルナを見つけると男はぎょっとしましたが、流石に無視するわけにもいかなかったのか、恐る恐るマルナに近寄ってきました。この男に聞けばサワデスの行き先がわかるかもしれません。息も絶え絶えのマルナはぜえぜえ言いながら男に尋ねました。

「ぜひゅ〜〜ぜひゅ〜〜、ざっ…ふう、ふう、さわで…さん、は、こひゅーこひゅー、ど、ひふぅひふぅ、ちら、にひぃ、ひゅうひゅう、いらっ、ふひ、しゃひ、ふぃぃ、ま、か、ひぃ〜〜ひぃ〜〜」

「え?」

 もはや何を言っているのかわかりません。

 男はそんなマルナを哀れに思ったのか、家の中に取って返すと、水の入ったコップをマルナに渡して飲ませました。二月なのに全身汗だくで軽い脱水症状にかかっていたマルナにとっては、まさにこの世の物とも思えない美味しさでした。激しい呼吸の合間をぬって少しずつ飲み込むたびに、限界寸前だった体の隅々に力が戻ってきます。どうにか少し落ち着くと、マルナは改めて男に尋ねました。

「お水、ありがとう、ふう、ございました。ふう、あの、サワデスさん、は、どちらにいらっしゃい、ますか」

 男はコップを受け取りながら、何かに思い当たったような顔で言いました。

「あれ、場所を聞いてなかったんですね。隣村の集会場ですよ」

「と、隣村……」

 この上さらに動かなくてはならないと知って、マルナは流石にくじけそうになりました。しかし隣のアッシュ村なら、ここからはそんなに遠くありません。万全の体勢なら、十数分も林道を走れば到着する距離です。マルナは最後の乙女力を振り絞って、教えられた集会場に向かうことにしました。さもなくば、これまでの苦労が全て水の泡になってしまいます。

「ありがとう、ございます。隣村……行かなくちゃ、ふう、ふう」

「あの、俺も今から向かうところなんで、良ければ一緒に行きますか」

「いえ、急いで、いるもので」

「そうですか……ところで、ちょっとお伺いしますが、背中のそれは一体」

「えへへ。私の、愛のチョコレートですっ」

 ぼやぼやしていたら手遅れになってしまいます。マルナは男にぺこりと一礼すると、転がり落ちるような勢いで坂道を駆け下りていきました。男がツッコむ隙もありません。男はあっという間に小さくなってゆく後ろ姿と、その背中に背負われている焦茶色の邪神像のようなものをぼんやりと見つめながら、何かとても嫌な予感を感じ取ったのでした。

つづく


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