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<つらつらと増えていくかもしれないオリジナル小物小説置き場>


大したものはないです。いやマジで。思いっきり短い上、基本的にオチなし。ご了承を。
ああ、それぞれのタイトルも考えなきゃ。

001から032までの話はこちらの簡易一覧からどうぞ。

なんとなく中編も:僕は愛車とデートする(Driving with You)  うれしはずかしラブラブデート小説
たまには二次創作も:おてんば恋娘をめぐる冒険  (東方project二次創作、東方創想話・作品集24に投稿したものの再録、名無しっ娘ファンに捧げる話)


 

033 [助手席] 助手席の人

 子供の頃はよく父にドライブに連れて行ってもらったが、そういう時はぼくは必ず後部座席に座らされたものだ。父は運転席に座り、助手席には誰も乗っていない。そしてぼくは二つの前部座席の間から体を前に乗り出して、父と、誰もいないからっぽの助手席の中心に割り込むようにポジションを確保する。なぜぼくが助手席に座れないのか気にしたことはなかった。物心つく前からずっとそういう風に教えられてきたので、てっきりそれが常識だとばかり思い込んでいた。

 ある時、ぼくと父は二人で遊園地に出かけた。日が暮れるまでめいっぱい遊び倒したせいで、帰りの車の中でぼくは眠り込んでしまった。そして家が近くなってきたあたりでふと目を覚ますと、父が助手席に向かって何か語りかけているのが聞こえてきた。

「ナツヒコはいい子に育っているみたいだ、はるこ」

 はるこって誰だろう。ぼくは起き抜けのぼんやりした気持ちのままそんなことを考えたが、薄目を開けて確認した助手席には、やっぱり誰も座っていなかった。だからぼくは、ああ、おとうさんは車に向けて話しかけているんだな、と思った。この車の名前ははるこというのか。知らなかった。車にも名前があったんだ。

「このままずっと順調にいってくれればいいんだが……お、そろそろ家が近いな」

 はるこ。はるこ。ぼくは初めて知った車の名前を頭の中で繰り返した。その名前はこの車にすごくしっくりくるような気がした。はるこ。はるこ。どこかあったかい感じがして、とてもいい名前だと思う。

「さて、そろそろナツヒコを起こしてやらなきゃ……」

 ぼくはまた目を閉じて寝たふりをした。おとうさんの大きな手で優しく揺り起こされるのを思い浮かべて、ぼくは少しだけわくわくした。



 

034 [排気ファン] おせっかい

 このパソコンは、俺がエロ動画を見ている時だけ、どういうわけか排気ファンの騒音がやたら大きくなる。ひょっとすると他の人に対して動画の音声を少しでも誤魔化しているつもりなのかもしれないが、あいにく俺はそういう時はいつもイヤホンを使うので全く意味がない。こうなるとむしろ、周りに「今こいつはエロ動画を見ていますよ」と教えているようなものだ。こういうのを余計なお世話と言うのだろう。
 とっとっと、イヤホンが抜けちまった! でも大丈夫、ファンの音がうるさいから周りにはきっと何も


 ぶおおお「ああーーん、ああああーーん」


 本気で蹴っ飛ばしてやろうかと思った。



 

035 [アイアンクロー] アイアンクロー症候群

 手ごろな大きさの丸いものを見るとアイアンクローをかけたくなる病気というものがあって、うちの姉貴がまさにその病気にかかっている。卵くらいの大きさなら全然平気なのだが、片手でぎりぎり持てるくらいの大きさになるとやばい。道行く子供からどっかの店の開店記念プレゼントの風船を奪い取ってアイアンクローをかけたり、通りかかった果物屋に突撃して店中のメロンを握り潰したり、もう散々だ。まぁ、いい年こいてまだ独身なのは、その病気のせいばかりではないと思うが。

 かく言う俺は今、全日本代表サッカーチームのゴールキーパーとして活躍している。巷ではどんなシュートでも掴んでしまう魔法のキャッチャーとか言われているらしい。たぶん姉貴と同じ病気にはかかっていないはずだ。来週生まれる自分の息子のために、俺はそう願わずにはいられない。



 

036 [桜の木の下の死体] 再葬

 見事な枝振りの墨染桜の下の地面から、女の子の上半身が生えているのが遠目に見えた。慌てて近寄って確かめてみると、女の子はとっくの昔に死んでいた。これが噂に聞く、桜の下に埋まっているという死体なのだろう。初めて見た。

「しかし……」

 誰だ、こんな中途半端な埋め方をしたやつは。半身浴じゃあるまいし、下半身だけ土の中に埋めてどうするんだ。これじゃまるで落とし穴にひっかかってもがいてるみたいで間抜けじゃないか。

 そう思ったので、近くの民家からスコップを借りてきて女の子を埋め直すことにした。幸いにも柔らかい土だったので、女の子の体がすっぽり入るくらいの穴を掘りきるまでそう時間はかからなかった。桜の幹に寄せておいた女の子の体を穴の中に寝かせ、上から土をかぶせる。たちまち何も見えなくなった。はい、終わり。女の子の死体はちゃんとした形で桜の下に埋まった。これで良いのだ。

 しかしスコップをかかえて戻ろうとした瞬間、すっかり何の痕跡もなくなってしまった地面を見て違和感を覚えた。これでは、ここに女の子の死体が埋まっていることに誰も気づかないだろう。誰も知らない桜の木の下の死体。それは本当に、桜の木の下に死体があるということになるのだろうか?

 少し考えたあと、結局また穴を掘り返し、女の子の首だけ地面の上に出しておくことにした。こうしておけば、ここに女の子の死体があることが誰の目にもはっきりとわかる。前より不気味になった気もするけど、それでこそ死体というものだろう。



 

037 [足跡] 足跡探検

 喫茶店で昼食をとってのんびり街中を歩いていると、地面に足跡が続いていた。ペンキで直接アスファルトに描かれているような白い足跡だ。どこに続いているのか気になったので先を目で追う。足跡は歩道の上をまっすぐ伸び、車道を越え、縁石も越えて、突き当たったビルの壁にも垂直に続いていた。足跡はそのまま壁をまっすぐ登って、一番上まで行ったところで見えなくなっていた。おそらく屋上にも続いているのだろう。ビルの裏側に回ってみると、予想通り、足跡は屋上から再び現れて、壁を垂直に下り、またアスファルトに戻って、俺の足元を通ってまだまだ先まで続いていた。どこまで続くんだ? どうせヒマだったので、しばらく追いかけてみることにした。

 しばらく足跡について歩いていると、少し先に、同じように足跡を辿っているおっさんがいることに気がついた。走り寄って声をかけると、やはり自分と同じように、この足跡の続く先が気になって仕方がないのだという。

「気になりますよね」
「こんなの続いていたらねえ」

 そのまま二人で延々と足跡を辿り、一時間もした頃だろうか。足跡の終着点がついに見えてきた。足跡はひとつの古いビルに向かってまっすぐ伸びていて、その入り口のところで途切れていた。足跡は最後に立ち止まるようにぴったり両足を揃えていて、その先には同じペンキで「Welcome」と書かれてあった。地面から目を離し、入り口の看板を見上げる。そこはパチンコ屋だった。おっさんが呟く。

「パチンコ屋の宣伝だったみたいですねえ」
「なんか……裏切られたような気分です」

 よりにもよってパチンコ屋とは。おっさんと顔を見合わせ、はははと力なく笑った。ほんと、よりにもよってパチンコ屋とは。正直がっかりしたので、おっさんと二人で戻ることにする。
「じゃあ、帰りますか」
 するとおっさんは言い訳をする時のような笑みを浮かべ、パチンコ屋を指差した。
「いや、私はちょっとここで遊んでいくことにしますよ。お別れですねえ」
「あ、そうですか」
「だってせっかくここまで歩いてきたんですからねえ」
 そう言われればそうだが、負けたような気分がしてどうも釈然としない。

「じゃあ」
「それじゃ」

 店の中に消えていくおっさんを見送ったあと、足跡を逆に辿り始める。あのおっさんはこんな平日の真っ昼間からパチンコ屋なんかで遊んでいて大丈夫なのだろうか。仕事はいいのか?

 と、そこまで考えたところで無性におかしくなった。そういえば俺も無職なんだった。いくらヒマだからって、平日の真っ昼間からこんな足跡なんか辿ってる場合じゃなかったな。あはははは。



 

038 [自転車泥棒] 天誅

 昔から決めていることだが、俺はもしドラゴンボールを七つ集め、願い事をひとつ叶えられるようになった時が来たならば、自転車泥棒を皆殺しにしようと思っている。神龍の不思議な力で、世界中の自転車泥棒を一人残らず駆除するのだ。自転車泥棒ほどこの世の中にいらない人種もない。罪に問われる心配がないというだけで、そんな悪行を平然と犯すようなモラルの欠片もない奴らは、死んで当然だと思う。こういう小さな犯罪を犯す奴が最も危険なのだ。危険因子を残らず消し去ることができれば、きっと世の中も平和になるだろう。

 しかし、自転車泥棒たちをただ殺しただけでは世の中が混乱に満ちてしまうことは目に見えている。場合によっては、自転車泥棒以外の人間も巻きこんで殺してしまうかもしれない。もし死んだ自転車泥棒が運転していた車が暴走した先に列をなして歩く幼稚園児の群れがいたら……などと考えると、恐ろしくて夜も眠れない。

 だからそこで俺はいくつかのルールを設けることも考えている。まず、自転車泥棒の定義だ。自転車泥棒は、他人の自転車を許可なく勝手に借用し、かつ自分が自転車を盗んだことを認識している人間のこととする。これで友人の自転車をちょっと借りてコンビニに買い出しに行く人間を殺してしまうことは免れられるし、不法投棄の自転車を移動しているだけの業者に裁きが及ぶこともない。そこにある自転車は使うのが当然、どの自転車も勝手に乗って問題はなく自分が泥棒だとは毛ほども考えていない馬鹿王子のような奴は残念ながら網に漏れてしまうが、そんな奴は放っておいてもそのうち殺されるので大丈夫だろう。

 殺し方にも気をつけなくてはいけない。俺としてはその場で肺に巨大な穴が開き、さんざん暴れながらじわじわ苦しんで死んでいく、もしくは体の端の方から順に爆発していく死に様が理想なのだが、あまり汚い死体を残してしまうと他の人間の迷惑になってしまう。なのでここは涙を飲んで心臓麻痺ということにする。ただし、多少は苦しませてやる程度にゆっくり止める。できることなら、死の直前になって脳裏に自分が殺される理由がふっと浮かぶように調整できればいいと思うが、流石にそこまで神龍の力で叶えられるかどうかはやってみなくてはわからない。駄目だったら潔く諦める覚悟はできている。

 そして最も重要なのが殺すタイミングだ。時速250kmで疾走する新幹線の運転手が自転車泥棒だった時には大変なことになる。そこで、殺すタイミングは「次に寝た時」とする。これで不慮の巻き込みは必要最低限に抑えられるだろう。寝たら死ぬという巨大なプレッシャーで自転車泥棒たちに地獄の責め苦を与えることもできる。しかもこの方法の最も優れたポイントは、誰もその死から逃れられないという点にある。寝ずに生きていける人間などこの世に存在しない。全世界の自転車泥棒を確実に、誰一人逃さず抹殺することができる。我ながら理想的なアイディアだと思う。

 これで世界はきっと変わるだろう。世の中の人間は死に怯える自転車泥棒とそれ以外の人間の二種類に分断され、あらゆる場所で断罪の光景が見られることとなるだろう。心当たりのある奴は怯え、苦しみ、そしてやがて死ぬ。それ以外の人間がぐっすり安眠する横で、自分だけは眠ることもできずに震え続けるしかないのだ。そして自転車泥棒たちがあらかた駆逐されたのち、自転車を盗んだことのない健全な人間たちによって新しい健全な社会が再構築されてゆく。なんて理想的な世界なんだろう。その日が来た時のことを想像すると、どうしても胸の鼓動が抑えられない。


「ということをいつも考えてしまうんだが、どうよ友田」
「どうよもクソも、お前それ盗んだバイクで走りながら考えることじゃねえだろ尾崎」




 

039 [散髪] 残り髪

 念願の理容師になれたまでは良かったものの、当時の私はとても資格が取れたとは思えないほど髪を切るのが下手だったので、学校を卒業してからしばらくは知り合いの美容室で見習いとして働いていました。しかしそこでも私の腕の悪さは当然のようにみんな知っていたので、私は最初の半年ほどは一度もお客さんを任されませんでした。自分でもそれは適切な判断だとは思いましたが、それでもやっぱり悔しくて、私はいつも夜遅くまで店に残っては、一人で髪を切る練習を延々と続けていました。

 その日、彼女が現れたのも、そんな風にして真夜中の店に一人で残って特訓している最中でした。どうしても上手くいかないハサミ遣いに悪戦苦闘していると、鍵をかけてあるはずの入り口のドアがきいっと小さな音を立てて開き、高校生くらいの長い髪の女の子がすっと入ってきました。透けかけている足元といい、生気のない顔といい、近くにふわふわ浮いている人魂といい、どこからどう見ても幽霊でした。私は驚いて、唖然としながら女の子を見ていましたが、そうこうしているうちに女の子は無言でつかつかと店の中を横切ってきて、私の目の前の散髪イスにひょいと腰掛けました。そして一言も喋らないまま、青白い顔で私の目をじっと見つめてくるのです。

「ひょっとして、髪を切ってくれって、そういうこと?」

 恐る恐る尋ねると、女の子は黙りこくったまま、こくん、と小さく頷きました。

 どうしたものかと思いましたが、幽霊とはいえ、初めてのお客さんです。しかもその髪というのが、とても魅力的な艶と色合いの、理容師なら誰もが死ぬまでに一度は切ってみたいと思ってしまうような、信じられないほど美しい髪なのでした。この髪を切ってみたいという欲求がどうしても抑えきれず、私はつい承諾し、じょきじょきと彼女の髪を切り始めたのでした。

 しかし終わってみると、やはり結果は散々でした。自分としては短めのボブカットにしたつもりだったのですが、どちらかというと頭がはげていない落ち武者のような、見るも情けない髪型になっていました。申し訳なくて、私は幽霊の女の子にひたすら頭を下げましたが、女の子は無表情のまま立ち上がると、またドアから外に出て行ってしまいました。追いかけようとするとドアにはやっぱり鍵がかかっていて、慌てて鍵を開けて外に飛び出してみても、ただ薄暗い夜道がまばらな電灯に照らされているだけでした。私は女の子の期待に添えられなかったことと、あの美しい髪を自分のへたくそな散髪で台無しにしてしまったことで、どうしようもなく落ち込みました。その日はそのまま荷物をまとめて、すぐに家に帰って寝てしまいました。床に落ちた女の子の髪は、気がつくとどこにも見当たらなくなっていました。

 しかし次の日、同じように一人で残って特訓していると、また女の子はやってきました。しかも驚いたことに、あの美しい髪が私が切る前の長さに戻っています。女の子は前の日と同じようにイスに座ると、切ってほしいと言わんばかりの空気を漂わせながら、私の顔をじっと見つめてきました。

 それから私は毎晩、女の子の髪を切るようになりました。女の子の美しい髪はいつも次の日には元通りの長さに戻っていて、その都度私はそれにハサミを入れていきます。結果はいつも散々でしたが、女の子は表情を変えず、一言も文句を言わないで黙って店を出て行きます。そして女の子が帰るのと同時に、床に落ちた女の子の髪も溶けるように消えていきます。恐らく私を気遣って、見えないところまで来てから髪を戻しているのです。そんな様子を見ているうちに、私はいつも申し訳なくなって、次こそは成功させるとその度に誓い、さらに猛特訓に励んだのでした。

 が、練習用の人形を相手にするのと、本物の客を相手にするのとでは上達の度合いが全然違うのでしょう。女の子が現れるようになってから私の腕はみるみる上達し、そのうちとうとう店長に本物のお客さんを任されるようになりました。最初のうちは失敗ばかりでしたが、それも次第に少なくなり、やがてなんとか一人前くらいの働きができるようになりました。その間もずっと、私は夜の店に一人で残って、延々と元に戻る女の子の美しい髪を切り続けました。女の子は終始無言で、一度も表情を変えることはありませんでしたが、私の散髪がどんどん上手くなっていくのを喜んでいるような気がしました。

 不況の煽りとライバル店の進出によって、店が取り壊されることが決まったのはその矢先でした。

 最後の日、私は女の子に、どういう髪型にしてほしいか尋ねました。これまでは女の子が何も言わなかったので、私が勝手に決めていたのです。すると女の子は、店の奥に並ぶ練習用のマネキンのうち、一番右端のものを指差しました。それはとても髪が長く、今の女の子の髪の長さとほとんど変わらないような代物でした。正直、切る余地はほとんどありません。仕方がないので私は毛先を少し整える程度にして、それから女の子の美しく長い髪を櫛でゆっくりと梳きました。髪は本当に美しく、絹のような張りと艶があり、吸い込まれそうな深みのある色をしていました。私は今までこんなに素晴らしい髪を毎日のように切ることができて本当に幸せだったと、強く強く痛感しました。

 散髪が終わり、女の子は立ち上がると、これまでと同じように無表情で黙ったまま、ゆっくりと出口に向かって歩き始めました。電灯の光の中で、女の子の髪はまるで洗いたてのレースのように膨らんで、きめ細かい光を反射していました。それを見ているうちに私はたまらなくなって、気がついたら大声で女の子に向かって叫んでいました。

「これまで本当に、ありがとうございましたっ!」

 外に出ようとしていた女の子はちょっとびっくりしたのかぴくりと震えて、それからゆっくり私に向かってお辞儀をしました。それから颯爽と店を出て、そして二度と戻ってきませんでした。私はひとつの日々が終わったことを思い、後片付けをするために掃除道具を取り出しました。しかしその時気付いたのです、今回だけは女の子の美しく輝く髪が消えていないことに。

 以来、私はその髪の切れ端をいつも持ち歩いています。端を揃えただけだから束ねるほどの長さもありませんが、それでもその髪は、私の初めてのお客さんが、命とまで呼ばれるものを少しだけ分けてくれた宝物なのです。今では私も自分の店も持つようになり、それなりに食べていけるようになりましたが、これを見るたびに私は、もっともっと上手くなろうと、そう思ってしまうのです。



 

040 [鬼嫁] 嫁の仕事

「ロウテンさま、ちょっとおしぼりさとっかえてきますべ、待っててな」
 魄が水の入った桶を抱えて外に消える。おれは霞んできた目をよく凝らし、その後ろ姿をじっと見送る。魄の着ている黄色い着物の裾が戸板の外に見えなくなる。外の暗闇の中では無数のこおろぎがりんりんと鳴いていた。
 いつのことだったか、死ぬなら虫の鳴き声の中が良いと魄に言い、そしてそれが現実になりつつあることを思う。
 おれはもう長くない。自分の年なんてよく覚えていないが、数えで七十を遥かに超えているのは間違いない。最近は起き上がるのもおっくうになり、外の畑のことはみんな魄に任せっきりだ。まして里の人間の顔なんて一年は見ていない。もうしばらく前からずっと、魄と二人きりの世界に生きてきた。
 おれが死に、残された魄がどうなるかを考える。
 ただの人間であるおれとは違い、鬼である魄はまだまだ若い。暴れ回っていた魄を調伏した頃のおれはまだ二十かそこらの若造だったが、今ではすっかりよぼよぼのじじいになってしまった。しかし魄の外見は当時から今までほとんど変わっていない。頭の角さえ隠していれば、美しい娘だと人は言うだろう。こんな娘と一緒に暮らせておれは幸せだった。最初は義務感からだったが、いつの間にか本当の家族のように思っていた。
 おれの死後、一人残される魄のことだけが気がかりだ。
「お待たせしましたべ」
 戻ってきた魄がおれの額に手ぬぐいを乗せる。おれは細く衰えた指を伸ばし、魄の柔らかい手のひらに触れた。魄はおれの指に気がついて、布団の横にちょんと座ったまま、にこりと笑った。
「何か言いたいことでもあるのけ? なんでも仰ってくださいな、ロウテンさま」
 優しい娘だ、と思う。昔はさておき、今は本当にいい娘だ。
「いいか、おれが死んだら、里を頼れよ。この家には住み続けてもいい。けれど、絶対に一人きりにはなるな。里の人間と、力を合わせて暮らしていくんだ」
「またその話ですか? もういい加減聞き飽きたっぺよ」
「何遍でも聞くんだ。最初は信じてもらえないかもしれない。昔のこともある。目付け役のおれがいなくなったら、お前がまた暴れ出すと考える奴も出てくるだろう。けれど付き合うことを諦めるな。お前は鬼だが、鬼には鬼にしかできないことがある。お前はその力で里の人々を守るんだ。いつかきっと、里のみんなもわかってくれる日が来る」
「はいはいはいはい。よっく心得ておりますだよ」
 つとと魄は立ち上がって、炭を何本か囲炉裏にくべた。炎がはぜる。小屋が少しだけ暖かくなる。おれを見下ろす魄の顔にわずかに赤みが増す。
 この顔だけは不幸にしてはならないと思う。
「魄、聞いているか魄」
「はいはい。聞いてますってば」
 面倒そうに、だけど楽しそうに魄は笑う。その顔がやがておれの死に曇り、里の迫害に歪むことを考え戦慄する。その時にはおれはもういない。魄は一人でつらい道を切り開いていかなくてはならないのだ。
 不安で不安で仕方がない。
「なあ魄、おい魄、」
「はくはくはくはくうるさいなあ。そんなに呼ばんでも、おらはちゃんとここにいるから心配しないでけろ」
「そういう意味じゃなくてだな」
「それにな、ロウテンさま」
 魄がそっとおれに顔を寄せる。若い女の柔らかい匂いがする。外のこおろぎの声が小屋に響き、りんりん、りんりん、鬼と人間を優しく包みこむ。
 耳のすぐ傍で唇が動き、艶かしい声が鼓膜をそっと震わせた。
「おらが操さ立てたのはロウテンさま一人だけだから、他の男と付き合う気なんかないべ」
「……んっ、なっ」
 たまらない匂いを感じて、思わず口篭ってしまう。
「あはははは。冗談だっぺよー」
 魄は満面の笑顔で、おれの皺だらけの顔をそっとつついた。
「ロウテンさまはほんと昔から、そういう冗談にはいつまで経っても慣れないべなー。うふふ、楽しいなあ。もうおじいちゃんなんだから、この手の話にはいい加減慣れてくださいな」
 三つ子の魂百までと言うだろう……と言おうと思ったら、そっと口を押さえられた。
「なあロウテンさま。そんなに心配しなくても、おらはおらでちゃんとやっていくから大丈夫だべ」
「……む」
 魄は魄で必死に明るく振舞おうとしているのだ。おれは何も言えなくなる。
「ならいいが」
「そうそう。わかったら大人しくしてけろ。今おかゆ作りますからね」


 ロウテンさまは安心して寝てくれたようだ。起こさぬようにそっと戸板を開け、金棒片手に外に出る。秋の夜風が頬を撫でる。こおろぎの声は、魄が家を出るしばらく前にはすでに止んでいた。
「……ロウテンさまの言う通りになってたら、何もかも良かったんだけどな」
 実際のところ、里との決裂はもう決定的なものになりつつあった。もちろん魄自身は悪いことなど何ひとつしていないという自負がある。飢饉に飢えた里にこの畑の作物を少しずつ渡していたら、いつの間にか増長した連中に、どうせ鬼風情には不要なものだろう、この畑と家を大人しく渡せとまで言われるようになった。人間なんて勝手なものだと思う。ロウテンさまは仲良くしろと言うが、先に裏切ってきたのは向こうではないのか。
「作物なんかいくらでもくれてやる。けどな、この家と畑まで渡すつもりはないべ」
 二人で荒地を耕し、苦労して建てた家と畑なのだ。ここにはこの五十年のほとんどが詰まっている。この場所を渡すということは、魄にとってロウテンさまとの月日まで渡してしまうことに等しい。向こうが態度を改めなければ、こちらもそれなりの手段に出る覚悟があった。
「誰が言ったか、嫁は主のいない間、家を守るものだ……だっけかな」
 家と畑を夜通し見張り続けるため、それなりの厚着はしてきたが、それでもまだ少し冷え込む。鬼は風邪なんてひかないが、それでも寒いものは寒いのだ。
「嫁……嫁かあ。いい響きだなあ」
 魄は自分の言った言葉に少しだけ酔いしれて、うふふと笑った。



 

041 [救急車] ゆけ! ぼくらの救急車

「なっ、この音はまさか……」
「大変だ、救急車が来たぞ、逃げろぉおおお!!」

 救急車特例法が制定されてからというもの、救急車の猛威は収まることを知らずに大きくなり続けていた。この法律は簡単に言えば「急患の元へ往復する救急車は、何人たりとも邪魔してはならない」というもので、最もやっかいなのは、そのためなら救急車は何をやってもいい、という解釈がなされていることだった。サイレンを鳴らす救急車を敵に回して、今なお無事でいる奴はいない。

「グゥワー、助けてくれーっ! 死にたくないっ!」
「いやっ、やめて……許して、来ないでー! きゃああああああーーーーっ!!」

 現場へ一刻も早く駆けつけるためなら、救急車は手段を選ばない。道行く邪魔な車を排除するためのロケットランチャーを標準装備し、常にそれを乱射しながら疾走する。あちこちで爆炎が上がり、運悪く救急車の進路を塞いでしまった車は容赦なく吹き飛ばされ破壊されてゆく。通行人はバルカン砲で紙のようになぎ倒され、逃げ惑う人々の悲鳴と怒号に混じってサイレンの耳障りな音が響き渡る。大量の瓦礫の山と倒れ伏す人々をよそに、救急車は猛スピードで駆け抜けてゆく。

「おかあさーん、おかあさーん」
「大丈夫か、大丈夫かオイ! 今助けを呼ぶからな、おーい、おーい誰か手伝ってくれ! クッソ、このうるさい音が邪魔で声が……ん?」
「サイレンが……消えた?」

「見ろ! 救急車の野郎、途中でUターンして病院に戻り始めたぞ!」

 途端に立場は逆転する。救急車特例法が適用されるのは、急患を運ぶ時の救急車だけである。今回のように、途中で何らかの事情があって急ぐ必要がなくなった救急車には何の権限もないのだ。今まで一方的に踏みにじられるだけだった人々の猛反撃が始まる。手当たり次第に石を投げ、大量のゴミで進路を塞ぎ、そのへんの棒切れを片手に救急車を追いかけ始める。さっきまで暴君のように破壊の限りを尽くしていた救急車は、今や狩られる側の獲物でしかない。

「てめえ、こらっ、逃げるな野郎!」
「よくも街をめちゃくちゃにしてくれやがったな!」

 救急車に容赦がなかった分、人々の反撃にも容赦がない。徒党を組んで道を塞ぎ、プレッシャーをかけ、次第次第に救急車を追い詰めてゆく。ロケットランチャーもバルカン砲も使えない救急車は、なんの武力もないただの救急車。頑強な装甲も、人々の猛攻撃の前にたちまちへこみ始める。窓ガラスにひびが入る。このまま再起不能に追い込まれてしまうのは時間の問題だ……と思われた、が。

 ……ぴーぽーぴーぽーぴーぽー

「なッ、またサイレンだと!? しまったヤバい! みんな逃げろぉおおおお!!」
「馬鹿な、どういうことだ!」
「すまん、妹が死にそうなんでつい救急車呼んじまった!」
「おまっ、この……アホンダラぁあー!」

 再逆転。破壊される寸前だった救急車に再び命が宿り、重火器がまた火を吹き始める。突然の事態に混乱し逃げ惑う人々の背には銃弾の雨が浴びせられ、ロケット弾がバリケードを跡形もなく粉砕する。最高速度で瀕死の患者の元へ行くために、救急車は全力で戦い始める。行け、ぼくらの救急車。君の到着を待つ者が一人でもいる限り、並みいる敵をものともせずに進み続けるんだ!



 

042 [時計塔広場] 広場のこと

 ぼくらの住む街の駅前には全国的に有名な時計塔広場があるのですが、その広場に行くのは決まってよそから来た観光客だけで、地元の人間はわずかな職員以外ほとんど誰もそこには行かないのでした。広場にはとても美しい庭園と時計塔があるそうで、観光客には大変に好評らしいのですが、十数年前に広場で大火事が起きて大惨事になったことがあるので、その時の嫌な思い出が蘇ってしまうと言い、大人はみんな足を向けたがらないのです。だから僕たち子供もそこには滅多に行きません。

 しかし先日また広場で大火事があって、今度は広場そのものがなくなってしまうことになりました。大人たちが恐れていた通り、やはり何かに呪われていたのかもしれません。そのことについてテレビで街頭インタビューをやっていたのですが、街の人々は揃って口を濁しています。誰も広場のことを知らないのですから、何も答えようがないのです。逆にこの街以外の出身の人間がみんな饒舌にこの街の広場のことを絶賛している姿を見ると、なんとも言えない妙な気分になります。



 

043 [噂] 噂

(1) 悪い噂のある人間や事柄には相応の欠陥があると昔から思っていて、噂だけを頼りに人や物を好きになったり嫌いになったりしていたら、そのうち私にも悪い噂が立てられるようになってしまったので、私は自分自身でさえも嫌いになってしまったのでした。

(2) 悪い噂のある人間や事柄には相応の欠陥があると昔から思っていて、噂だけを頼りに人や物を好きになったり嫌いになったりしていたら、そのうち何もかもが嫌いになってしまいました。

(3) 噂なんて何も気にしないで生きていたら、何故か悪い噂を立てられるようになってしまいました。しかし、私は噂を気にしない人間なので、何の問題もありません。ありませんよ。ありませんってば。



 

044 [ツンデレ] 怪異! ツンデレおばさんの恐怖

「ちょっと積照さん!
 あんたね、いつもいつも好き勝手にゴミ捨ててるでしょ。ほら、その手の袋だよ!
 あのね、ここに看板があるでしょ?
 ここに指定の曜日以外にゴミを出すなって書いてあるでしょ?
 みんなで決めたルールはきちんと守ってもらわないと困るんだよねえ」
「うるさいわね! 持ち帰ればいいんでしょ持ち帰れば!
 …別にあんたのためなんかじゃないんだからね!」

「おいオバハン、強引にシートに割り込んでくるなよ!
 こんなちっちゃい隙間に、すっげえ狭えんだよ! ったく……」
「いいじゃないのよちょっとくらいさ! 若いくせにガタガタガタガタといちいちうるさいよ!
 …でも、入れてくれてありがと」

「だからねえ奥さん、これ以上は値切れないって何回言わせたら気が済むんですか?
 ちょっとしつこすぎるよ。ダンナさんの稼ぎが少なくて苦労してるのかもしれないけど、
 こっちだって商売なんだからさ」
「な、なんでそこであの男の話が出てくるのよ! か、かか勘違いしないでよね!」


「うん、やっぱダメか。いまいち萌えないんだが、どうよ友田」
「どうよもクソも、タイトルからいきなり妖怪扱いしといて何を言ってんだ尾崎」



 

045 [直線] 迷いのない道

 長かった蛇行道路が終わり、やっと待ち望んでいた直線に出た。これまでの道はまるで小腸のように延々と曲がり道が続いていたから、相当なフラストレーションが溜まっていた。早く誰にも遠慮することなく、直線道路を全力でかっ飛ばしたい。空は見事な快晴、アスファルトの向こうは熱で揺らいで見える。夢にまで見たような最高のシチュエーションだ。逸る気持ちを止められないまま、直線前のピットインに入った。ここでマシンの装備をコーナリング重視のものから直線重視のものに取り換えなければならない。

「すいませーん。換装、お願いしたいんですけどー」
「はいはーい」

 色っぽい雰囲気の作業着の姉ちゃんが小走りに近寄ってきて、俺のマシンを誘導し始める。示されたマーカーに合わせてマシンを止めると、他にもぞろぞろと奥から作業員がやってきて、俺が何も言わないうちからすぐに作業を始めた。

「すごく手際がいいですね」
「仕事ですからー」

 作業員たちは猛烈な勢いで俺のマシンを分解し始める。度重なる衝突でひん曲がったバンパーを外し、可動式のフロントライトを外し、ウインカーを外し、ハンドルも外し、

「ちょっと待った。ハンドルも外しちゃうの?」
「そうですが、それが? どうせ真っ直ぐ進むだけだもの、必要ないでしょう」
「それはそうかもしれないけど……」

 このままでは本当に直進しかできないマシンになってしまう。もし、途中で向きを変えたくなったらどうするんだろう。Uターンしたくなったらどうするんだろう。何かを避ける必要が起きたらどうするんだろう。そうこうしているうちにどんどん俺のマシンは生まれ変わっていく。困惑した声で作業着の姉ちゃんに不安を伝えると、彼女はどこかがっかりしたような目で俺を見た。

「そんなだからこれまで蛇行道路ばっかり続いてたんだって、気付かないんですか?」

 作業は間もなく終わり、ターンテーブルに載せられた俺と俺のマシンは、いよいよ直線のスタートラインに並んだ。テーブルごと角度の微調整が行われ、すぐ横のシグナルが青に変わる。作業員たちは帽子を脱いで、あざーした、と一斉に敬礼する。俺は覚悟を決め、走り出した。あんなに待ち望んでいた直線だったのに、こんなに空は晴れているのに、何故かどうしても爽快な気分にはなれなかった。



 

046 [虚像] 鏡の彼

 わたしはずっと、恋をしている。
 彼の名前は知らない。どこの誰かもわからない。それどころか、人間かどうかも怪しい。見た目はただの人間なのだが、どう考えてもただの人間ではありえない。
 彼は鏡の中にいる。
 鏡の中で、いつも後ろからわたしの体をそっと抱きしめていてくれるひと。それが彼だ。だが現実にはそんな人の姿はなく、彼の体に触ろうとしても、わたしの手はむなしく空を切るばかりだ。もちろん体温も気配も何も感じない。ただ鏡の中にだけ、彼の存在を確かに感じられる。彼はいつも優しく微笑んでわたしをそっと抱いている。濡れたような前髪と端正な表情が、じっと鏡の中からわたしを覗き込んでいる。わたしは照れて鏡から目を離す。鏡を覗き込んでいるはずのわたしは、いつのまにか覗き込まれる側に回っている。もう、どっちが現実で、どっちが鏡の中なのかわからない。
 たぶんわたしか彼の、どちらかが幻想の存在なのだろう。

 最初に彼の姿を見たのは、いつのことだかもうよく覚えていない。小学生の時だったのだと思う。朝起きて、鏡を見たらそこにいた、そんな感じだ。もちろん幼い私は大騒ぎして彼のことを周囲の人に伝えたが、誰も信じてくれなかったのですぐにわたしは口をつぐんだ。それから、彼のことはわたしだけの秘密になった。

 中学生になった頃から、彼のことが次第に恋愛対象として気になってきた。彼はわたしの知る限りの他の誰よりも美しかった。テレビの中のアイドルや俳優の笑顔ですら、ずっと変わらない彼の微笑みに比べると、何の魅力も感じられなかった。他のクラスメイトが騒いでいる「ちょっとかっこいい」男子も、わたしから見るとどこにでもいる普通の少年にしか見えなかった。わたしは彼の存在を内心で自慢に思い、秘密を誇った。わたしはこんなに素敵なひとに抱かれている。そう思うだけで幸せだった。

 高校時代、彼への想いはますますヒートアップしていった。授業中も登校中も友達と遊んでいる間も自分の部屋にいる間も、ずっと彼のことしか考えられなかった。暇さえあれば鏡を覗き込み、彼の手が回っている自分の肩にそっと手を伸ばした。当然ながら、そこには何もない。だがわたしはそれでもかまわない、と思った。そこにいるのは事実なのだ。わたしは彼と会話もできなければ触れることもできない、聞くことも感じることもできない。しかし、そんなことはどうでも良かった。わたしはただ見えるだけの彼に生涯寄り添って生きていこうと思った。鏡の中からわたしを見る彼には、それくらい尽くすだけの価値があるように思えてならなかった。

 大学に入り、わたしには親しくする友人が何人かできた。新しくできた友人たち、その中には男の子もいた。そのうちのひとりが、いつしか頻繁にわたしを誘うようになった。どうやらわたしに気があるようだった。彼といるのは楽しかったが、しかし、わたしには鏡の中のひとがいる。他の誰かと付き合うつもりはなかったので、ある時、きっぱりとわたしは彼に言い放った。わたしには好きなひとがいる、と。毎日、そのひとはわたしを抱きしめてくれているのだ、と。うそだ、と彼は震える声で呟いた。幻かもしれないが、少なくともうそではないことをわたしは知っている。わたしはそのひとのことだけを考え、にっこりと笑ってじゃあね、と言った。

 それから、その彼の様子がおかしくなった。わたしの行く先行く先あらゆるところにつきまとい、常にわたしの様子を観察しているようだった。どうやらわたしの話が本当かどうかを確かめるつもりらしかった。しかし、鏡の中のひとはわたし以外の人には見えない。いくら探してもわたしの生活のどこにも男の影が見えなかったからだろう、彼は再びわたしを呼び出した。そんな男なんてどこにもいないだろう。俺をだましやがったな。そもそもお前なんかを抱いてくれるような男がこの世にいるかよ。鏡の中のひとの存在を知っているわたしは反論する。だましてなんかいない。あなたには見えないだけで、そのひとは今もわたしを抱きしめているのだ。鏡の中で。これは流石に彼も困惑したのか、動きが止まった。わたしは肩に手を伸ばす。当然ながら、そこには何もない。だが彼はいる。帰ったら、今日もめいっぱい可愛がってもらおう。そうやって生きていこう。わたしはそのひとのことが好きで好きで仕方がないのだ。反応のなくなった彼をわたしは置いて去ろうとした、その時振り返ると、彼が今まさにわたしにナイフを振り下ろすところだった。

 発見された時、周囲は血まみれで、ふたりとも死んでいると思われたそうだ。が、死んだのは彼ひとりだった。わたしは瀕死だったが、一命をとりとめた。彼の無理心中はどうやら失敗に終わったようだった。全身包帯巻きで身動きの取れないわたしは命拾いしたことを神に感謝したが、しかし包帯が取れるより先に、わたしは絶望の底に突き落とされることになった。

 わたしの視覚は奪われていた。

 それから、わたしは怖くてたまらない。鏡を見ることができない、たったそれだけのことで、中のひととのつながりが完全に途切れてしまった。それがたまらなく悲しくて、悔しかった。それに比べれば、他に何も見えなくなったことも、死にかけたことも、ものの数ではなかった。今もそのひとはわたしの後ろにいるのだろうか。いるのだろう。そう信じるが、それを確かめることができない。いつそのひとがわたしを見限って去っていくとも限らないのだ。そしてもしそうなってしまった時、わたしにはそれを知る術はない。何もない空白に向けて、延々と語り続け、想い続ける生活が始まる。それはとても耐え難いことのように思えて、怖くて怖くて仕方がない。その時こそわたしは本当に狂ってしまったことになるのだろう。これが死んだ彼の本当の狙いだったのだろうか。今となってはそれもわからない。

 しかし、本当に怖いのはそんなことではない。今のわたしにできることは、今も後ろにいるであろう彼の存在を信じて、今までと同じように語りかけ、愛することだけだ。鏡の中にも、現実にも、どこにも彼がいなくなったのだとしても。だがそれは今までの生活と何が違うのだろう? 違いといえば、わたしの目が見えなくなったことだけだ。あとは、彼に触れないことも、語り合えないことも、周りの誰にも彼が見えないことも、何も変わらないのだ。何より、わたしは今もその人のことが好きで好きでどうしようもない。今までとまったく同じように。なら何が違う? 何も違わない? 今のわたしが狂っているなら、今までのわたしも狂っていたのだろうか? 今は何より、それが怖くてたまらない。

 彼の手があるはずの、自分の肩にそっと手を伸ばす。当然ながら、そこには何もない。



 

047 [麦畑] じいちゃんの麦畑

 じいちゃんが行方不明になった。

 家族は大騒ぎしていたが、僕にはひとつ心当たりがあった。麦畑だ。大地主のじいちゃんはこのあたりのいたるところにいろんな土地を持っているが、その中のひとつに、隣町の麦畑がある。昔、まだ僕が中学生くらいだった頃、じいちゃんが死ぬ時はその麦畑のど真ん中で死にたいと言っていたのを思い出したのだ。

 じいちゃんは自らの死期を悟り、麦畑の中心へ向かったに違いない。

 僕は身支度を整え、すぐに隣町へと出かけた。家族には言わなかった。じいちゃんが僕にだけ麦畑のことを話してくれたように、僕も麦畑のことは秘密にするべきだと思えたのだ。朝イチのバスに乗って隣町へ行き、家の資料でこっそり確認した住所を頼りに麦畑を目指した。さっさと行って、とっととじいちゃんを見つけて、すぐに連れ帰ってこよう。そんな考えがどれほど浅はかだったかを、僕は実際に麦畑を目の前にして痛感した。

 麦畑はあまりに広かった。

 広い。広すぎる。ここに来るまで、せいぜい野球ドームひとつ分くらいの広さだろうとばっかり思い込んでいたが、とんでもない。麦畑は地平線の彼方まで続いていた。遠くに見える山々も、全て麦に覆われていた。浜辺に立って、曇り空の海を眺めた時の感覚に近い、と言えば少しは伝わるだろうか。僕の足元から始まっている麦畑は、僕のまだ知らない世界のほとんどを埋め尽くしているように思えた。そこにあるのは空と太陽と、そして圧倒的なスケールを誇る麦の海だけだった。

 その中に、細く長い道が一本続いているのが見えた。これが中心に向かう道だ、と僕は直感した。近寄って目を凝らすと、確かについ最近、誰かがこの道を通った足跡があった。間違いない、じいちゃんはこの先にいる。僕は一も二もなく足跡を追いかけた。

 細々と伸びる麦の道は、しかし決して途切れることはなく、退屈な風景だけをいつまでも僕に見せ続けていた。秋の風は心地良かったが、その風にたゆたう麦の穂波を見ていると何故だかたまらなく切なくなった。僕という存在が麦畑の中に開かれて、片っ端から中身が解き放たれつつあるような錯覚に陥る。ふと思い出す。じいちゃんはあちこちに土地を持ってはいたが、滅多に家から出ることはなかった。何故なのだろう。他の土地もこんなに広くて、そして恐ろしい場所なのだろうか。それとも、やはりこの麦畑だけが特別なのだろうか。耳を澄ましても、麦が揺れる音しか聞こえない。満ち足りた音にも、空っぽな音にも聞こえた。麦畑は続く。前を見ても後ろを見ても麦、麦、麦。秋の光が麦を金色に照らしあげる。けれどそこには麦しかない。麦に満ちているこの場所は、どうしようもなく空白だった。その中を、僕はすがるようにして、微かに続く道を辿り続けた。

 昼前から歩き始めて、なんとなく空がオレンジ色に染まってきた頃だろうか。麦畑の中に、黒い点のようなものが見えてきた。目を凝らすと、黒い岩のようなものが、麦畑の真っ只中にぽつんと浮かんでいるのだった。あれが中心だ、と僕は直感した。あそこにじいちゃんもいるはずだ。くたくただったけど、僕は駆け出した。早く、岩の傍に行きたかった。こんな何もない場所はもうこりごりだった。

 じいちゃんは岩に背を預けて、地面にへたりこむように座っていた。慌てて駆け寄ってみると、すうすうという寝息が聞こえる。生きていた。僕は安堵のあまり、じいちゃんの横に同じようにしてへたりこんでしまった。背中に感じる岩の感触に、心の底から救われたような気分になった。

「おい、ケンジ。どうしてお前がここにいる」

 じいちゃんが目を覚ましていた。僕はむっとして、じいちゃんを探しに来たに決まってるだろ、と言い返した。じいちゃんは少しだけ目を薄めたあと、そうか、お前にはこの畑のことを話したんだったな、と呟いた。

「まだ覚えていたとは。そうか、覚えていたのか」
「あんな内容の話、忘れることなんかできるかよ」
「おい、ここのことは……」
「誰にも言ってない。それで良かったんだろ?」

 じいちゃんは、見直したように僕を眺めて、それから、わかってるじゃないか、と言った。

「本当はお前にも話すべきではなかったのかもしれん。理由はわかるだろう」

 わかる。この麦畑をこの目で見るまではわからなかったが、今ならはっきりとわかる。

「本来なら、ここはお前にはまだ早すぎる場所なんだがな…」
「なぁ、じいちゃん。こんな場所がこの世にあったんだな」
「このくらいの場所なら、この世のどこにでもあるさ」

 それからしばらく、僕とじいちゃんはぼんやりと肩を並べて座り込んでいた。疲れと安心で体の力が抜けきっているのを感じながら、僕はじいちゃんの言葉を頭の中で繰り返していた。このくらいの場所なら、この世のどこにでもある。それはどうなのだろう、と思った。こんな場所がどこにでもあるなんて信じられなかった。少なくとも僕は、こんなに恐ろしい場所を見たことがない。文字通りの意味なのか、それとも何かの比喩なのか。よくわからなかった。

「ところで、じいちゃん」
「ん?」
「この麦畑って、やっぱり全部じいちゃんの持ち物なのか?」
「そうだ。わしが死んだらお前にやる。そのための手続きもしてある」
「いらねえよ」

 持っていたって、たぶん絶対ここには来ない。

「そう言うな。わしもわしのじいちゃんから引き継いだ。こうやって代々受け継がれているのさ。
 さあ、帰るぞ」

 僕はあっけにとられてじいちゃんを見上げていた。

「……死にに来たんじゃないのかよ」
「さっきまではな。だが、お前が来た時点で意味がなくなったんだよ」

 そうかもしれない、と僕は思った。それほどまでに、じいちゃんの存在が、自分以外の誰かの存在が大きなものに感じられたからだ。麦畑の怖さは半減していた。ここは誰かと一緒に来てはいけない場所なのだ。

「ほれ、立て。ぼさぼさしてると今日中に帰れなくなるぞ」

 何か反論しようかと思ったけど、やめた。僕は立ち上がって、前後左右あらゆる方向にただ広がっている空白を見た。斜陽が麦穂波を照らしている。きらきらとした金色の粒が麦の大地いっぱいに輝いていて、何故かとても悲しい気分になった。



 

048 [座り込み] 弟子になりたい

「先生! お願いです、僕を弟子にしてください!
 弟子にしてくれるまでここを動きません!」


「あら、またあそこの先生に新しいお弟子さん候補が来てるわね……」
「最近多いなあ。前は二週間前だっけ?」
「十日くらい前かな。ゆうちゃんの誕生日の日だったから」
「しっかし、よく雪の中にあんなにずかっと座れるよな。冷たくないのか?」
「それをアピールするのが目的なんじゃないの」
「みんなやってることなのにな。目新しさがない」
「もうこのあたりの名物になっちゃってるもんね」
「お、先生が出てきたぞ。何か言ってる」
「やっぱ今回も駄目だって感じねえ。あらあら、あんなに頭下げても無駄なのに」
「おお叫んでる叫んでる。若いって奴は羨ましいもんだ」
「あ、家の中に戻った」
「てことは、いつものパターンだな」
「うん、そうみたい。あはは、今日もやっぱりまた持ってきたわよ」
「あれ?」
「あれあれ。いつもの石油式ストーブ」
「うはは、面食らってる面食らってる」
「続々と来たわよ。娘さんは毛布ね」
「息子さんはテントとポータブルテレビか」
「こう毎回毎回繰り返してると手際もすごいことになってるわね。あ、もうテントが建った」
「二十秒かかってないんじゃないのか?」
「テレビに出れるんじゃないの? 特技を披露する番組あるじゃない」
「地味な特技だなー。それより彼を見ろよ彼を。鳩が豆鉄砲食らったような顔してるぜ」
「ああ、毎度のことだけどほんと笑える」
「で、いつもの作戦通り、みんな家に戻っていったな」
「ひっひっひっ、ちょっと、あの光景シュールすぎるわよ……」
「テントで雪をしのいで、毛布で寒さをしのいで、ストーブで暖取って、テレビ見ながら座り込み。
 お前何しに来てんだよ(笑)」
「ほら見て、見て。めちゃくちゃ困ってる。困ったらまゆげがピクピクするのね。ひっひっ、最高」
「ここで間を置くのがポイントなんだよな」
「この間で相手に考えさせるのがミソなのよね」
「そしてトドメに奥さんが……お、来た来た。スープ持って。いっぺん飲んでみたいな、アレ」
「いつ見ても美味しそうよねえ。今度材料聞いてみようかしら」
「お、彼、諦めたみたいだぞ」
「今回は早かったわね」
「それが賢明だと思うがな。ああ、頭下げて帰っていった」
「結局あの人、何しに来たのかしら?」
「それは聞いてやるな(笑)」
「にしても、あの先生って、本当は優しい人なのかそうでないのか、どっちなんだろうね」



 

049 [モル] 分子たちの一期一会

「おう、正樹、正樹じゃないか」

 呼び止められたので振り向いたら、そこにいたのは忠久だった。まだ俺たちが氷だった頃、ずっと隣で手を繋いでいた友人だ。水になった時に離れ離れになって以来二度と会うことはないと思っていただけに、この予想外の再会には驚いた。まさか水蒸気になってから再び会えるなんて。

「どうよ、調子は」
「どうもこうも、相変わらずビーカーの壁に体当たりしてるだけだぜ」
「ははっ、そりゃお互いそうだよな」
「それより誰だよ、隣にいるその可愛い子は」
「紹介するよ、俺のツレの美春。こないだ結婚したんだ」
「何だって? てめっ、やりやがったな。羨ましいぞこの馬鹿野郎」
「いてっいてっ、やめろって」
「美春さん。このバカのお守りは大変でしょう」
「そりゃもう。この人、ちょっと気を抜くとすぐ手を離しそうになって大変なんです」
「お前なあ。ここで手を離したらもう再会できないかもしれないんだぞ。ぼーっとするのもいい加減にしろ」
「わかってるよ。流石の俺もそこまで馬鹿じゃないから安心しろ」
「どうだかなぁ……」
「あらっ、また少し温度が上がったみたいですね」
「おや、本当だ。じゃあな、そろそろ俺達は行くぜ」
「おう。二人とも元気でな。仲良くやれよ」
「ありがとうございます。正樹さんも頑張ってくださいね」
「頑張れよ〜」
「うるせっ、大きなお世話だ」

 手を振って二人と別れる。二人は少しだけ反射の向きを変えて、あっという間に小さく見えなくなってしまった。いい夫婦だった。末永く幸せになって欲しいと思う。

 さて、それで俺の場合だが。どんどん加熱されてゆく空気を肌で感じながら、ため息をついた。俺を含めてどの分子も好き勝手に猛スピードで飛び回っているから、なかなか出会いがないんだよなぁ。最近ますます温度が上がってきてるし。こんなことなら、液体時代にとっとと結婚しておくんだったぜ。



 

050 [髭剃り] 切れてなーい

「それではこれより第三十六回切れてない道初段認定試験を始めます。受験番号1番の方、髭を剃りながら、これから私が話す内容をよく聞いてイメージしてください。
 あなたは高校生です。今日も親友とどうでもいいことをだべりながら、学食で昼食を食べています。すると、ふと誰かの視線を感じました。気になって周囲を見回すと、自分の席から少し離れたところにクラスで一番可愛い女の子が座っていて、こちらをちらちら眺めていることに気付きました。あなたと目が合ったことに気付くと、彼女は愛想笑いを浮かべて目を逸らしてしまいました。しかし、心なしか頬がほんのり赤くなっています。
 次の日も彼女はこちらを見ていました。すっかり忘れていたのですが、そういえばあなたは彼女に、同じクラスになったばかりの頃、いろいろ親切にしてあげたのでした。ありがとう、とあなたにお礼を言った時の彼女は、とても可愛らしい様子でした。なんだか、少し胸がどきどきしてきました。と、突然彼女は覚悟を決めた様子で立ち上がり、あなたの座っている席に向かってつかつかと歩いてきます。彼女は真っ赤になりながら、今日の放課後、校舎裏に来てくれませんかと言いました! ……あなたの隣にいる親友に向かって!
 そこまで! 動かないでください、判定!」
「切れてなーい」
「よろしい、合格!」



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