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「MARΩ」連載開始直前特別企画
「MAR」のバトルを考える
 その1・合理性編
 →その2・動機付け編→その3・作画的演出編


0.はじめに

 みなさんこんにちは。へっぽこです。「MAR」は面白かったですか? 私はそうでもないです。

 今、「MAR」は本編が終わって一段落ついているところですが、話によると明日発売の39号からすぐに続編の「MARΩ」が始まるとのことで、複雑な心境の方も多いものと思います(こんな記事を読んでいるような方なら特に)。私も例によって複雑な心境ですが、実際の作者も変わることですし、無印の頃より酷くなることはないだろうと思って少しは希望を抱くようにしています。というより、あれ以上につまらない漫画がちょっと想像できない、といった方が正解に近いんですけどね。

 それはさておき、新作が始まってしまえば当然、旧作の話題は時代遅れになってしまいます。そこで今のうちに、前からいつか書くいつか書くと言っていた「MARのバトルの何が悪いのか」についての言及、つまり「MARのバトル斬り」を行ってしまいたいと思います。

 とはいえ、そのまま斬ろうとしてもあまりに問題点が多すぎてどこから手をつけて良いのかわからなかったので、ここではとりあえず、私がかねてからバトルを構成する三要素として注目している、「バトルの合理性」、「動機付け」、「作画的演出」という三つの面から考えていくことにしました。

 ということで、ここからは話が少し難しく込み入ってくるので、途中で読むのが面倒になったら、一番最後の結論までスパッと飛んでしまうことをお勧めします。仮に途中を全部読み飛ばしてしまったとしても、特に損するようなことはないでしょう(ただし、この文章に対して意見や反論などがある場合は、ちゃんと全部読んでからにしてくださいね。そんな人はいなさそうだけど)。

 それと、もうひとつ。この文章は基本的に「MAR」をバッシングする内容になっておりますので、ファンの方は気分を害される可能性が非常に高いと思われます。閲覧の際はくれぐれも注意を。




0-1.三つの要素とは

 さて、先ほど述べた「合理性」「動機付け」「作画的演出」の三つの要素についてですが、こう言ってもみなさんにはまるで意味不明だと思うので、各要素の詳しい解説に入る前に、ここでまず三つの要素がそれぞれ何を意味しているのかを簡単に説明します。

 まず「合理性」とは、これは読者が納得できる&期待している合理性が、バトル内に存在するかどうかを計る尺度です。これはバトルの内容そのものを計る尺度であり、簡単に言うなら、バトルに頭を使っているか、あるいは作中物理法則が無視されていないか、といったことを調べるためのものです。詳しくは後述しますが、これは単にバトルが頭脳的かどうかを確かめるためだけのものではありません。もっと広い意味で、きちんと合理的にバトルが行われているかどうかを確かめる項目です。

 二番目の「動機付け」は、そのバトルにどれだけ読者を感情移入させているかを計る尺度のことです。これはバトルの背景を計る尺度であり、そのバトルにどんな意味付けを成しているのかを扱います。この要素は、実際のバトルシーンにおいて、演出の起伏を増幅もしくは減少させる「掛け算」のようなものとして機能します(例えば、感情移入の度合いが高ければ、敵をちょっとギョッとさせただけでも快感の効果が倍増し、かなりのカタルシスが得られることがあります)。

 そして最後の「作画的演出」は、実際に紙に絵として描かれた絵柄そのものを計る尺度のことです。これはバトルの見せ方を計る尺度であり、他のふたつがストーリーや構成上の話であり、別に漫画に限ったことではないのに対して、こちらは漫画にしか存在しない、作画技術についての話です(小説で言うなら、文章の巧さに該当します)。ただしここで注意してほしいのは、この尺度は決して「美術的な上手さ」だけを対象としたものではないということです。それに加えて、視線誘導や漫符、テンポの緩急のつけ方、コマ割りや台詞回しといった多くの点を対象とします。

 以上が、「バトル漫画を構成する三大要素」と私が思っているものの内訳です。バトルを扱うあらゆる漫画は、これら三つの尺度において、それぞれどのような位置にいるかを調べることによって、分類や区別ができるのではないかと考えています(例えば、低合理性と高動機付けの「ONE PIECE」「うしおととら」、高合理性と低作画的演出(?)の「結界師」「HUNTER×HUNTER」、低動機付けと高作画的演出の「BLEACH」「D-LIVE!!」など。これらの区分は今適当に考えたもので、信憑性もへったくれもありません。注意)。

 では以下、これら三つの要素から、「MAR」のバトルを分解してゆきたいと思います。そこでまず最初に、「合理性」について見ることにしましょう。




1.「MAR」のバトルの合理性について

 合理性と一言で言っても、この尺度にはいくつかの下位項目が存在します。この下位項目については正直なところ未だに練り込みの途中で、「とりあえず設定してみた」という程度のいささか信憑性に欠ける内容なのですが、この場では、きちんと因果関係が機能しているかという「世界の合理性」、バトルの展開が頭脳的かどうかという「展開の合理性」、そしてできることとできないことがきっちり区別されて描かれているかという「限界の合理性」の三つの面を挙げます。


1-1.「MAR」のバトルの「世界の合理性」について

 この「世界の合理性」とは、要するに「刺されたら出血するか」や「炎を浴びたら火傷するか」、または「魔法の使えない世界観なのに魔法を使っていないか」「両足を折られたのに立っていないか」など、極めてシンプルに「この世界では(こうなれば)こうなるはずという常識がきちんと守られているかどうか」を確かめるものです。これは別に必ずしも現実世界に準拠する必要のあるものではなく、その作品世界において存在すると説明されており、かつ終始統一されていれば問題ありません(「ドラゴンボール」の世界は「気功波が撃てる」という世界設定で、かつごく初期に説明が入っているので、現実世界と違い、気功波を撃っても問題はないのです)。

 さて「MAR」の場合ですが、これはあまり守られているとは言えなさそうです。例えば「マトモに殴られたのにノーダメージ」や「溶岩の直撃を受けて服に焦げ目ひとつ付いていない」「腹部を刺されても出血がほとんどない」など、因果関係を無視した描写がいろいろ目立ちます。攻撃を受けたら「喰らったモーション」を取る、味方がちゃんと味方の応援をしてくれる(笑)など、一応バトル漫画の成立のために最低限必要な描写はされているようですが、本当に必要最低限に留まっているので、ダメージ描写などはひどく適当ですし、頻繁にある突然の新武器の導入に代表されるように、説明なしに新しい概念や設定がいきなり入ることも珍しくありません。総じて、この項目は合格点をあげられるような達成度では決してないだろうと思います。

 なお余談ですが、残念ながらこの項目に関しては少なからず無視している少年漫画が多く、「MAR」以外にも苦言を呈さなければならない作品が山のように存在します(例えば、放電現象で岩をも壊せる「ガッシュ」、空中でいきなり落下軌道が変わる「ケンイチ」など)。むしろこういった細かい辻褄合わせはノリで無視するのが少年漫画のスタンダードになりつつあるのではないでしょうか。個人的には、これが多くの漫画の世界観にリアリティが伴わない要因のひとつになっていると思われるので、大変に遺憾な事態だと思っているのですが……。


1-2.「MAR」のバトルの「展開の合理性」について

 「展開の合理性」とは、簡単に言うなら、バトルの展開に頭を使っているかどうかを確かめる項目です。この項目に関してはいろいろ細かいチェックポイントがあると考えられるのですが、結局のところは「伏線の設置と回収」に話が収束するので(伏線の数が増すほど複雑化し、伏線の利用方法が巧みになるほど意外性が増す)、伏線の設置と回収がきちんと行われているか、そしてそれがどのように行われているかという点について見てみることにします。

 そして「MAR」の場合ですが、まず大前提であるところの「伏線の設置と回収がきちんと行われているかどうか」からしてダメです。伏線の設置自体がひどく適当ですし、さらに伏線の回収も多くの場合満足に行われていません。どのように伏線を張り、どのようにそれを話に活かすかという伏線技術うんぬん以前の問題です。

 「MAR」の伏線の設置のダメさ加減について例を挙げると、例えば「突然出てくる新ARM・新能力」などがあります。誰がどのようなARMを持っていてどんなことができるのかということが、いつも実際に使うまで示されません。百歩譲って敵の描写はそれでも仕方がないにしても、ドロシーやナナシのような味方にまでそれが言えるのはいただけません。そのせいで、例えどんなピンチに陥ろうが「どうせ新しいARMを出してなんとかするんだろ」と思えてしまい、緊張感というものが全く感じられなくなっています。事前の描写といえばせいぜい「修練の門で修行した」「カルデアで新しいARMを貰った」程度のもので、想定される範囲が広すぎるため伏線としては全く機能していません。

 また、伏線の回収についても問題だらけです。例えばフィールドの設定なんかがその典型例で、せっかく「これこれこういうフィールドだよ」と伏線を張ったとしても、それが話に全く影響を及ぼさない(回収されない)ことが非常に多い。まれに「スノウが火山帯フィールドに弱い」など思い出したように使われることはありますが、ほとんどの場合はどこで戦おうがまるでお構いなし。氷原フィールドだから薄着のキャラは体の動きが鈍るとか、砂漠フィールドだから砂に足を取られて移動速度が落ちるとか、そういった「当然考えられる影響」が本編に出てくることはありません(ついでに言うなら、同じ熱帯系の舞台なのに、砂漠フィールドではスノウの行動は何故か全く制限を受けていませんでしたね)。筆者には未だにレギンレイヴフィールドとキノコフィールドの違いがわかりませんが、誰かこれを説明できる人はいるのでしょうか。

 また、この伏線の回収の話はバトルの流れそのものにも言えることであって、例えば事前に○○という技が出てきたことがあったら(伏線)、それに応じて××という対抗策を用意する(回収)、といったこともまた伏線の話に収めることができます。しかし「MAR」ではやはりその点が曖昧にされる、もしくは全く気にされていないことが多く、ほとんどの場合は強力なARMによって力づくで問題を解決するだけ、たまに敵の属性にきちんと対処したARMが出てきたらむしろ喝采モノ(例:鬼火属フォレ)という、他の漫画では考えられないような事態さえ起きています。全体的な内容に関しても、それまでの試合展開がどのようなものであったとしても、最終的には強引にガーディアンARMの対決でまとめてしまうことがとにかく多いため、試合の経過描写の意味が完全に失われています。

 以上、この項目について「MAR」は問題が非常に多いです。ここが「MAR」のバトルの最大の問題点のひとつであることは間違いありません。この点に関しては、いずれもっと詳しく語ることがあるかも……しれません。


1-3.「MAR」のバトルの「限界の合理性」について

 「限界の合理性」とは、簡潔に表現すると「作品内で“できること”と“できないこと”がきちんと区別されているかどうか」を確かめる項目です。1-1の世界の合理性に似ていますが、あちらは火をつけたら燃えるなど主に作品世界内の一般常識を扱う項目だったのに対して、こちらでは主にキャラクターのアビリティ――ロールプレイングゲームで言うところの「キャラクターの能力値+属性+習得技能」――を扱います。誰にどこまでのことができてどこからのことができないのか、何が得意で何が苦手なのか、誰には勝てて誰には勝てないのか。そういったことを正確に定義できているかどうかを計るということです。当然、これらがきちんと描写されていないとキャラの強さがぼやけてしまい、戦力比較をするどころか、キャラそのもののことさえ明確にイメージできなくなってしまいます。

 これは見ての通り非常に基本的なことですが、しかしバトル漫画にとって最も重要なことであり、この項目の設定は他の二つより一層ダイレクトに、バトルそのものの面白さに関わってくるものだと私は考えています。なぜなら、終始圧勝するにしろ、僅差の接戦を繰り広げるにしろ、逆転勝利するにしろ、あらゆるバトル漫画の展開は「二者の能力の定義」を抜きにしては成立しないからです。この定義を曖昧にしてしまうと、例えばさっきまで苦戦していた相手にいきなり理由もなく圧勝したり、わけのわからない技でわけのわからないうちに決着がついてしまったりといった、つまらないバトル漫画の典型パターンに発展・依存してしまう可能性が非常に高くなります。これは、限界を決めておかないと、早い話が「なんでもあり」になってしまうからです。

 なお注意すべきこととして、この項目は「できること」よりも「できないこと」、つまり限界を描くことの方がより重要であると述べておきます。なぜなら、これがきちんと描けていないと、問題を打破することの困難さ、すなわち越えるべきハードルの高さ(とそれを超えた時の爽快感)がわからなくなってしまうからです。「できること」を描くのは簡単で、実際あらゆるバトル漫画において至極当然かつ頻繁に行われていますが、「できないこと」をきちんと描けているバトル漫画となると途端に数が限られてきます。しかし、バトルが面白いと評される漫画のほとんどは、この点がきちんと描かれているように筆者は思います。

 そして「MAR」の話ですが、みなさんも想像がつく通り、キャラの強さに関しては非常に曖昧な描かれ方をされています。戦闘に入る前の準備段階の描写が圧倒的に不足しているため、誰がどんなARMを持っていてどんな技が使えるのか、具体的に読者に伝えられることはありません。また、仮に使う技がわかっていたとしても、その特性やダメージ量が正確に描かれることもありません。ただ「あいつは強い」「なんて技だ」「すごい魔力だ」といった抽象的なセリフで強さが強調されるだけです。「これこれこういったことができるからこいつは強い」という感じで具体的に強さをイメージすることができないので、どんなに強いと言われ続けても、なんだか煙に巻かれたような気分になってしまいます。

 また当然、限界の方の描写も非常におざなりなものになっています。困ったら簡単に新能力を出して切り抜けてしまう(何でもできるような描き方をしている)ため、「何ができないのか」が全くわからず、従って必然的に「どうやってそれを切り抜けるのか」を考える楽しみも奪われてしまいます(カノッチ戦なんかが良い例です)。「何ができるのかできないのかよくわからないキャラが、どんな効果かよくわからない能力で、勝てそうに見える戦いに挑む」。これでどうやって楽しめというのでしょうか? それに、バッボのガーゴイルやクッションゼリーに代表されるような、限界をその場の都合で決められるような能力が多いのも問題です。その場の都合で決められる限界は、そもそも限界と呼ぶに値しません。

 結論としては、この項目に関しても、満足に意識することができていないとしか言いようがありません。全ては具体性を欠いていることが原因で、そのせいで味方の強さもその理由も不明確、敵の強さとその根拠も不明確、どんな技で何ができるのかも不明確で、それによってどうなるのかも不明確(しかし、話の都合で勝敗だけは読める)という最悪の事態になっています。早い話が悪い意味での「なんでもあり」状態で、伏線活用能力不足と合わせてバトルの面白みが完全に失われています。これでせめて、例えばガーゴイルで与えられるダメージ量の限界が決まっているとか、カルデアで誰がどんなARMを貰ったのかその時はっきり描かれていれば少しでも違ったんでしょうけど……。


1-4.「合理性」についての結論

 「合理性」についての結論は、常識が常識として機能していないので「世界の合理性」はダメ、伏線の設置や回収がマトモに行われていないので「展開の合理性」もダメ、強さの描写があまりに抽象的で都合によって変わるので「限界の合理性」もダメ、という見事なダメ三拍子となりました。だから「MAR」のバトルは面白くないのだ、と言いきっても過言ではないでしょう。

 ただし「MAR」が他に比べて突出してダメなのは「展開の合理性」と「限界の合理性」だけであって、「世界の合理性」については、「ガッシュ」や「ケンイチ」「うえき」を始めとした他のバトル漫画も満足ではない、ということはここに特記しておこうと思います。これは物語を描く上での基本中の基本事項であるはずなのに、今のサンデーのバトル系漫画でこれがしっかりできているのって、せいぜい「結界師」と「絶対可憐チルドレン」くらいなんじゃないでしょうか?


 以上、今回はバトルの内容について筆者の考えをまとめてみました。次は、バトルの背景、つまり動機付けをテーマにして考えていきたいと思います。


「MAR」のバトルを考える2/3・動機付け編に続く




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