「MARΩ」連載開始直前特別企画
「MAR」のバトルを考える
 その2・動機付け編
 ←その1・合理性編→その3・作画的演出編


 前頁では、バトルの内容そのものを考える「バトルの合理性」について注目してみました。そして引き続き今頁では、戦いの内容とは直接関係のない「バトルの動機付け」について注目していこうと思います。先ほどまではバトルの内容に関する話でしたが、ここからはバトルの背景やキャラの心情、そしてそれらによる読者の感情移入の度合いについての話になります。


2.「MAR」のバトルの動機付けについて

 バトルに対する感情移入は、大きく分けると「味方への動機付け」と「敵への動機付け」の二つに分類できます。名前を見れば大体の内容は想像できると思いますが、味方への動機付けとは味方側のキャラへの感情移入を指し、敵への動機付けは敵側のキャラへの感情移入を指します。これらは敵・味方のどちらか片方だけでも成立していればバトルに感情移入することはできますが、もちろん両方できていれば相乗効果で素晴らしい威力を発揮することになります。なお、敵キャラはその性質によって、必要とされる感情移入の質が異なる「悪役タイプ」と「ライバルタイプ」という2タイプに区分されるので、それぞれ別に扱ってゆくことにします。

 もちろん、これはどちらかというとバトルシーンそのものではなく、それ以外のシーンに注目することの多い尺度です。しかし、いくら直接バトルシーンを計るものではないといっても、動機付けが重要であることに変わりはありません。それは、先ほどまで述べてきたような「どんなバトルが描かれているのか」も重要な事項ですが、「それにどのような意味合いを与えるか」という意味で、バトルの背景描写というものも、同じくらい重要な事項だと思われるからです。

 では以下、「MAR」のキャラの場合について、味方・悪役タイプの敵・ライバルタイプの敵のそれぞれの場合における感情移入が、それぞれどのようになされているかを見ていくことにします。


2-1.「MAR」のバトルの「味方への動機付け」について

 味方への動機付けとは、主人公をはじめとした味方サイドのキャラクターに対して、読者をどの程度感情移入させることができているのか、できうるのかを測る項目です。「MAR」で言うなら対象はギンタ、ジャック、スノウ、ドロシー、アラン、ナナシ、アルヴィスの七人になります。これらのキャラクターに対する好感度、共感、応援する気持ち、感情移入などをまとめたものが本項目で扱う要素になります。

 そこで「MAR」の場合ですが、結論から言うと、手続きが下手で、とても感情移入しにくいと言わざるを得ません。まず主人公の戦う理由に共感できないため、彼が何を言っても、何をしても、盛り上がることができません。一応「世界を救うため」という大義名分は用意しているものの、もう一歩踏み込んだ部分の「なぜ主人公は世界を救いたいと思っているのか」の説明描写が酷く適当に済まされているため、せっかくの大義名分が少年漫画的なお約束に成り下がってしまっているのです。この漫画の場合、戦う動機となりえる守護対象はメルヘヴン世界とスノウ姫ということになるのでしょうが、これらに対してギンタがどのような経験を共有して、どんなことを考え、どれくらい大切に思うようになったのかという過程がほとんど省かれているので、いきなり結論として「メルヘヴン世界を愛している」「スノウは大切だ」「人間は美しい」などと言われても、説得力が全く感じられません。

 こうなってしまっている原因は、ひとえに戦いの前の日常描写が圧倒的に不足していることにあります。バトル漫画にとっての日常パートは、決して単なる息抜きのエピソードなどではありません。そこで守るべきものの詳細な様子を描写し、愛着を持たせて「これを守りたい」と読者にも思わせることで、いざ戦いに突入した時の感情移入を促すために必要不可欠なステップです。しかし「MAR」ではそれらの「メルヘヴンがどんなところか」「人々がどのように暮らしていたのか」「それがどのくらい大切なのか」を説明するステップがほぼ完全に欠落しているため、守るべき世界に愛着を抱くどころか、それがどのようなものなのかすらよくわかりません。これでは感情移入などできないに決まっています。

 また登場人物の性格にも少々問題が感じられます。例えば真剣勝負の最中にへらへら笑って遊んでいる(ように見える)主人公のギンタ、世界を守るという絶対譲れない使命を抱えているのにも関わらず女の子相手に手加減して引き分け(もしくは負け)続けるナナシ、偉そうな発言を繰り返し、もったいぶって出てくる割に活躍しないアランなど。これらは違う角度から見れば「楽しいキャラ」「フェミニスト」「威厳のある先輩」といった風にポジティブに捉えることもできますが、そういった見方のできない人から見ると感情移入など到底不可能なキャラ造形であるように思います。

 また、言っていることとやっていることの間に差があったり、言うことをころころ変えたりすることが散見されるのも大きなマイナスポイントです。絶対に世界を救うと言いつつ真剣勝負の最中に遊ぶ(バトルの幕間のやりとり)、許さないと言った直後に許す(ガロン戦)、殺しを賛美した後に殺しを否定する(アリババ戦終了時とMr.フック戦終了時の比較)など、主義主張及び実際の行動に一貫性が感じられません。その場の空気で言うことやることをどんどん変えるキャラがどれだけ立派なことを言ったところで、狼少年効果で話半分も信じられないだけ。結果として、ますます感情移入を阻む要因にしかなっていない気がします。

 以上、「味方への動機付け」の結論としては、とにかくキャラやその動機を説明するための描写が少なく、かつその内容にも疑問が感じられるという点で、やはり満足な出来ではないと思います。しかし世の中には「MAR」のキャラクターに愛着を抱いている人も大勢いるのは事実ですから、上に掲げたような点はあくまで「私の視点から見た場合」の話であって、それが絶対的な結論ではないということはここに付記しておきます。


2-2.「MAR」のバトルの「敵(悪役タイプ)への動機付け」について

 ここでの悪役タイプの敵キャラとは、倒すべき悪として描かれた敵キャラのことを指しています。このタイプのキャラは読者に徹底的に嫌われるように描かれているのが特徴で、そのため自己中心的な迷惑行為や非人道的な行為を平然と行う傾向があります。そして主人公の初期状態よりもずっと強く、大きな力の持ち主として描かれることがほとんどです。「MAR」の場合は、オーブ、クイーン、ペタ、ハロウィン、ラプンツェル・ギロム姉弟などがその代表格と言えます。

 このタイプのキャラに対する感情移入は、先ほどの味方への動機付けとは異なり、「どれだけ読者に不快感を与えるか」が重要になってきます。なぜなら、このタイプの敵を倒した時に感じるカタルシスは、勧善懲悪的な、敵を叩き潰す爽快感が主だからです。ゆえにこの項目では、どのようにして悪役キャラを読者に嫌わせているか、またどの程度嫌わせているのかを見てゆくことにします。

 なお、この悪役タイプの敵キャラにもそのキャラなりの信念を持たせたりして読者に好感を抱かせる場合もありますが、それはバトルにおける悪役に必要な要素としてではなく、バトルから離れた部分でのキャラの魅力を引き出す要素として扱います(大物感を出すことによって強さを強調することなどもあるので、決して無関係ではないのですが……)。従って、この場ではとりあえずそういった表現については省略させていただきます。

 さて、この漫画における悪役キャラは、ルーガルーブラザーズのような最初期の一部の敵を除いてほとんどが「チェスの兵隊」に所属しています。この「チェスの兵隊(以下「チェス」と記述)」はメルヘヴン世界を破壊することが目的のテロリスト集団で、そのために残虐行為を平然と行うという設定なのですが、この漫画の内訳はほとんどが実際のバトルシーン(ウォーゲーム)に費やされているため、「チェス」がそれまでどんな極悪な所業を繰り返してきたのか、誰がどう悲しんできたのかがあまり描写されていないため、悪役としての印象が薄くなっています。従って、読者に「チェス」のことを十分に嫌わせられることができていないと思われます。

 また、実際の行動についても、「ウォーゲーム」のシステムが邪魔をして、その悪役性を十全に発揮できているとは言えないでしょう。勝負がほぼ一対一の形式で、かつ連続して行われるため、通常の手法では被害者となるべき外部の第三者がそこに存在できず、そのままでは必然的に悪役キャラも「憎むべき加害者」とはなれないからです。そこで無理矢理敵キャラの中から被害者を出して対応しているのですが、所詮彼らは「チェス」の一員なので純粋な意味で同情することはできず、しかも描写が軽いので「実はそんなに悪い奴じゃなかった、むしろいい奴だったんだよ」と読者に思わせることもできていません。従って、被害者に感情移入させられない→加害者を憎ませることもできない、という結果に終わっています。

 それに、中にはロコやシャトンのように、(「チェス」の悪逆非道集団という設定が生きているのにもかかわらず)可愛らしく描かれ、ほとんど悪役キャラとして機能していない悪役キャラもいます。当然こういったキャラとの勝負においては、通常の意味での感情移入が非常に困難となります。

 以上より、「MAR」における悪役タイプの敵キャラへの動機付けについては、バトルの事前・バトル最中の両方についてその悪役ぶりを読者に印象付けることが不徹底なため、さほど優れていないものと考えます。またその原因としては、単なる描写不足だけではなく、ウォーゲームというバトルのシステムそのものも挙げられることを特筆しておきます。せめて「チェス」との対決が試合形式ではなく、ヴェストリのように専用エピソードを絡めたものだったのならば、多少は違った結果になったのかもしれません。

(なお、悪役タイプのキャラが悪に染まった動機についてですが、それはここでは割愛します。動機があろうがなかろうが、またそれがどのようなものであろうが悪役は悪役であり、その行為次第で読者に悪印象を与えることが可能だからです。しかし、キャラ自体の魅力の演出には深く関わってくるので、二次的に読者の感情移入を操作するのもまた事実。ゆえに本当は無視できないのですが、このあたりの概念はまだ整理できていないので今は省略せざるを得ないのです(ごめんなさい)。ちなみに「MAR」の場合は、「味方への動機付け」と同様に、肝要であるオーブの動機の「何故そう思ったのか」の部分がすっぽり抜け落ちているため、その行動原理にいささか浅薄な印象を受けます)


2-3.「MAR」のバトルの「敵(ライバルタイプ)への動機付け」について

 先ほどの悪役タイプは倒すべき悪を指していたのに対して、ライバルタイプは文字通り、ライバル的な競争相手のことを指します。このタイプの敵キャラは必ずしも悪人でなくとも良いのが悪役タイプとの最大の相違点で、それどころか多くの場合は味方キャラにごく近い位置付けで、ある程度読者の共感を誘う存在として描かれます。その行動は千差万別で、悪役キャラに近い言動を取るヒールキャラもいれば、味方キャラに近い言動を取るヒーローキャラまで多岐に渡っています。共通する特徴は、実力的に未熟で主人公と平行して成長してゆく場合が多いことと、その行動動機が比較的丁寧に、かつ多分に共感しやすい形で描写されること(もちろん、共に例外はあります)。「MAR」で言うなら、ファントム、イアン、ロランといったキャラがライバルタイプに該当します。

 ライバルタイプの敵キャラとのバトルにおける最大の見所は、味方キャラとライバルキャラとの対比にあります。「なるべく爽快に敵を叩き潰すこと」が見所である悪役タイプの敵キャラとのバトルとは違い、味方キャラとライバルキャラの思想それぞれを描き、それを並べて競わせることで読者にワクワク感を与えるのです。

 そして、読者の共感を得る味方キャラと対比されるということは、とりもなおさずライバルタイプのキャラも読者に共感させることが大事だということでもあります。こうしてどちらの言い分にも一理ある形にすれば、バトルが思想的な面で接戦となり、かつそれに引きずられる形で現実的にも接戦となり、ある程度は勝敗が読めなくなって面白みが倍増するからです。従って、ライバルキャラへの動機付けの如何を見るには、そのキャラの思想をどうやって読者に納得させているか、そしてそれをどう味方キャラと対比させているかに注目することにします。

 ではまず「思想をどうやって読者に納得させているか」についてですが、ここにおいてもどうにもならない問題として立ちはだかっているのが圧倒的な描写不足です。キャラの心情を読者に共感させるためのエピソードは一応用意されているのですが、それを語る場所が非常に少ないため、あまり実用的な効果を上げているとは言えないでしょう。例えばロランがファントムに従うことを決めたエピソードでは、ただ「ロランは辛い目に遭ってきた」としか描かれず、具体的にどんな酷いことをされたのかがばっさり省略されているため、その設定にリアリティを感じることができません。

 また、ファントムの思想についてはそもそも読者の理解を得られるようには描かれておらず、ライバルキャラの心理描写としては非常に中途半端な形に終わっています。ファントムの場合は自らの意思で信念を固めたというより、単にオーブに洗脳されただけと言った方が的確なので、ここに思想の具体性はおろか、キャラとしての魅力を感じることもできません。とりあえずそれを補完するためにヴェストリの恋人の霊のエピソードが語られてもいますが、それさえ描写が最後にちらっと(取ってつけたように)触れられるだけなのでさほどの意味を成していません。

 ただ、イアンに関してだけはこの漫画では驚異的なほどに描写が繰り返されていることは特記しておきます。初登場の頃からイアンの決着戦に至るまでがひとつの大きな流れでちゃんとまとめられており、他の二人に比べて非常に感情移入を促しやすい形に仕上がっています。各シーンにおけるイアンの思惑や行動も比較的丁寧に描かれ、読者の気持ちを動かすことを意識しているように思われます。しかし、そもそもの大前提である「なぜ「チェス」に入ったのか?」の部分が例によって宙ぶらりんのため、完全な形での感情移入が果たせていないのが残念なところです。

 そして次に、それをどのように味方キャラと対比させているかについてですが、これに関しては一応バトル時における対話という形でなされてはいるものの、それに説得力を持たせるための措置が不完全なため、これもまたさほどの効果を得ていないと考えます。

 例えば、それぞれの思想及びその対比に説得力を持たせるには、その思想がどのような経過を経て形成されたものなのか、それがバトルにどう影響するのか、といった描写が必要不可欠です。しかし「MAR」では、その両方について不徹底な描かれ方しかされていないのではないかと思います。

 思想が形成されるまでの経過については、先程まで何度も何度も言ってきたように描写不足が響いています。ライバルキャラについても、それと対比させるべき味方キャラについても過去描写や心情描写がなおざりなため、彼らの言葉が口先レベルの言い争いにしか見えません。むしろ比較的丁寧な描写がなされたイアンの場合、下手をすると主人公であるギンタの言葉より真に迫るよう聞こえてくるという逆転現象まで起こっています。

 そしてその思想がどうバトルに影響するのかというと、これはもう呆れるほどに何の影響も及ぼしていません。通常の漫画の場合は、「○○は断固たる決意で勝負に臨んでいたから、大ダメージを受けてもまだ動くことができた」とか、「思想の欺瞞を暴かれ、一瞬戸惑った隙に致命打を与えられた」とか、そういった形で多少なりとも思想がバトルに影響します。だから勝者の思想は敗者の思想より優れていると表現できるのです。しかし「MAR」の場合は、台詞による論争とバトルの流れが完全に隔離されています。要するに、思想が優れていようが劣っていようが腕力の強い方が勝つという、ただそれだけの勝負になっているのです。これでは思想の対比が十分であるとはとても言えないでしょう。

 以上より、「MAR」におけるライバルタイプの敵キャラへの動機付けについては、その思想に読者を共感させることが不完全で、かつその対比を満足に描くこともできていないので、やはり否定的な目で見ることしかできません。ただしイアンの思想形成の描写についてだけは、不完全ながらもかなり丁寧に描かれていたため、そこまで酷くはなかったのではないかと言及しておきます(もちろん他の漫画の同タイプのキャラと比べると、格別良くもありませんでしたが……)。


2-4.「動機付け」についての結論

 「動機付け」についての結論は、味方キャラについては読者に共感させることができず、悪役キャラを読者に満足に嫌わせられることもできず、ライバルキャラを魅力的に扱うこともできなかったということで、やはり問題だらけだったのではないかと思います。全てはひとえにバトル以外の描写の少なさに起因しており、この漫画の盛り上げ方に関する根本的問題はここにあると考えて間違いないのではないでしょうか。個人的には、この「動機付け」を何よりも重視する藤田和日郎の教えを受けておきながら、このような結果になったことが残念でなりません。まあ、それは藤田信者である私の単なる勝手な愚痴なので、これ以上は控えますが。それにその藤田先生自身が「からくりサーカス」で読者の共感を中途半端にしか呼べなかった以上、あまり説得力のある意見ではないですしね……。

 以上、今回はキャラの心情やバトルの背景、盛り上げ方などについて考えてみました。そして次は最後に、バトルがどのように描かれているか、要するに作画技術的な面について触れてみようと思います。


「MAR」のバトルを考える3/3・作画的演出編に続く
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